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新たな始まり
今までの人生を振り返ると、こんなに幸せだったことは無かったかもしれない。
「おはよう、稔」
目を覚ますと、隣に蓮矢の顔がある。さらに抱きしめられているから、朝からドキドキしてしまう。
「お、おはよ…」
蓮矢は、ちゅ、と俺の額に口付けた。
これでもかというほど甘やかされ、優しく包み込まれ、俺は初めて人に「愛される」ということを知った。
「蓮矢のそばにいると安心する…」
もぞ、と身じろぎ、腕を伸ばして抱きつく。
素肌が触れあう感じが心地好い。
人の体温がこんなにもあたたかいものだったなんて、知らなかった。
優しく頭を撫でられ、幸せを噛み締める。
ぎゅう、と抱きしめ、さらに密着すると頭を撫でてくれた。それがむず痒くも嬉しくて、頬が緩んでしまう。
「稔、体調は大丈夫?」
「体調?…あ、えっと…大丈夫だ」
問われた意味が時間差で分かり、赤面する。
俺は昨日、蓮矢と深く交わった。触れられるだけであんなにも乱れてしまう自分が恥ずかしい。しかも喘ぎすぎたせいか、声の調子がいつもと違う。
「無理をさせすぎたね」
「大丈夫…蓮矢優しかった、よ」
「仕事は行けそう?」
「ん…平気」
のそりと起き上がる。少しダルさは残ってるけど、動けるから大丈夫。
シャワーを浴びているうちに、蓮矢は朝食の準備をしてくれたらしい。良い匂いがする。
「ありがとう」
「ああ。稔は紅茶で良かったかな」
「あ、うん。コーヒーより紅茶の方が好きかな」
「そうか。ミルクと砂糖はこれ」
蓮矢は慣れた手つきで食事を運び、調味料を並べる。俺もそれを手伝いながら、蓮矢の動きを目で追う。何をしても様になるなぁ、なんて考えながら、二人で席についた。
サラダにロールパンに、スープにたまご…
どうやら蓮矢は朝は洋食派のようだ。
些細な事実だけど、こうやって一つずつ知っていけるのかと思うと、何だか嬉しくなった。
その後も、蓮矢にあれこれと世話を焼かれながら時間が過ぎていった。
テレビのニュースが時刻を告げ、そろそろ出ないと間に合わなくなる時間となった。
「車で送っていくよ」
「え。でも…蓮矢だって仕事あるだろ?」
「俺は在宅の仕事だから」
「あ、そうなんだ」
そういえば…蓮矢の職業は知らないなと思いながら、後をついていく。聞いてもいいのかな。答えてくれるだろうか。
車の助手席に座りながら、悶々と考える。
どこまで踏み込んで聞いていいのか分からない。今まで人付き合いを積極的にしてこなかったからか、俺はどうにも距離感というのが分からない。
「あれ…この本…」
シートベルトをしめ、所在なく目線をさ迷わせていると、前の棚に本が数冊置かれていた。見知った作者の名前が書いてあり、まじまじと見つめる。
「どうかした?」
「あ。ええと…この本、蓮矢の?」
「ああ、そうだね。俺の本」
「俺さ、この作家さん好きなんだ。デビューした時から追いかけてて、出た本は全巻持ってる。雑誌にエッセイとか載ってることもあってさ…つい買っちゃうんだよな」
背表紙に書かれた"江波 漣"という作者名を指でなぞる。蓮矢との共通点を見つけられて嬉しい。
「ありがとう。読んでくれてるんだな」
「…?」
不意に蓮矢が発したその言い方に、何か引っ掛かりを覚える。どうして蓮矢が礼を言うんだろう。
「稔に読んでもらえてるなんて嬉しいよ。書いていてよかった」
「…、…え、え……えっ?」
「俺のペンネームだよ、江波 漣って」
「ぅえぇっ?!」
思わず声がひっくり返ってしまった。
今、蓮矢はなんて言った?
「蓮矢って、職業は…つまり」
「作家だね。まだまだ駆け出しだけど」
「全然…、全然気付かなかった!」
「人前に出たくなくて、メディアに顔出しはしたことがないんだ。だから、稔が知らないのは当然だと思うよ」
「そ…っ、そうだったのか…!すごいな、蓮矢は『れんくん』で『江波 漣』なのか…!」
じっと蓮矢を見つめる。
偶然というか、運命とでもいうのか…俺はずっと、そばに蓮矢を感じて生きてきたんだ。
「驚いた?」
「衝撃的すぎて頭がついていかない…」
「そうか。少しずつ、俺のことを知ってくれると嬉しいな」
衝撃的な告白も含め、色々な話をすること早数十分…あっという間に俺の職場近くにたどり着いた。
「じゃあ、また連絡して」
「うん、わかった」
「また、うちにおいで」
「ああ。今度は、蓮矢もうちに来て」
「もちろん」
幸せに包まれながら、去っていく車に手を振って仕事に向かう。
むず痒くて、嬉しくて、楽しい。
蓮矢は俺に大きな安心を与えてくれた。
蓮矢に会えて良かったと、心から思える。
まだ"今"の蓮矢のことは知らないことが多い。でも、知らないことは知っていけばいい。
そして、俺のことも知ってほしい。
もっともっと、お互いに知っていることを増やしたい。
俺は雲ひとつない青空を見上げながら、晴れ晴れとした気持ちで、新しい一歩を踏み出した。
終
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