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名前
心身共に疲弊し、起き上がるのも億劫になってる。今日も男の手によってベッドに座らされ、腰に枕が当てられ、男の手で食事を食べさせられる。
その日も男は、俺に朝食を食べさせ、額に口づけ去っていった。
「…」
手を見つめようとする。
実は、最近ぼんやりと輪郭が分かるようになってきた。視界は極端に狭く、フィルターを何重にもかけたような感じだが、それでも明暗しか分からなかった時に比べるとだいぶマシだ。
ただ、物と物の境界線はだいぶ曖昧だから、いまいち部屋の広さは分からない。男の姿形も見えない。
ギィ、と部屋の扉の音が鳴って、はっと顔を上げる。男が帰って来たのだろうか。
男はベッドに腰かけ、俺の頬に触れた。
でも、その感触に違和感を覚える。触れ方とか、温度とか、質感とか…違う。この手は、知らない。
「…っ、誰?」
避けるように体を引くと、かすかに笑い声が聞こえてきた。誰だ。
「やっぱり蓮矢じゃないって分かるんだな」
「れんや…?」
「そう、蓮矢。花の蓮に、弓矢の矢で蓮矢。君を監禁してる奴の名前だけど、知らなかった?」
こくり、と頷くと突然現れた男は至極面白そうに笑った。
「あー、じゃあ、聞かなかったことにして? 勝手なことしたって分かったら怒られるから」
「…」
「俺は楠見 奏太。奏でるに太い、で奏太。年齢は君より2個上かな」
「……奏太、さん」
俺を監禁している男の名前が分かったのは収穫かもしれない。ただ、名前を聞いてもやっぱり分からない…蓮矢という名前に、心当たりはない。
「あ、それで俺が来た理由なんだけどさ、ちょっと診察に来た」
「診察…?」
「そう。俺、一応医者の卵でね。医学部通ってるんだ。いそがしーい合間を縫ってやって来たのさ」
「…何でですか」
「蓮矢に頼まれてさ。君この間、放置されてぐったりしたことがあっただろう? その時の蓮矢の狼狽えぶりがすごくてさ。だからこうして診察にきたんだよ。あ、動かないで、ちょっと診させてもらうよ」
男は俺の目を中心に、問診を開始した。
健康診断を受けている気分だ。
「もしかして、ちょっと見え始めてる?」
「…え…」
「んー…とりあえず段々見えるようにはなるかもね。前と同じようになるかは微妙だけど」
色々と呟かれながら診察を終えた。
見えるように、なるんだ。そうすればもしかしたら、この部屋から逃げ出すことできるかもしれない。
「蓮矢はさ」
「…?」
「君のことになると、ちょーっと、ぶっ飛んだことしちゃうみたいだけど、いい奴だよ」
「………」
監禁するような奴がいい奴であってたまるか。
喉元まで出かけた言葉をぐっと飲み込む。
「はは、まぁ信じろって言っても無理か。でも君が好きみたいでさ。これからどうするかは君次第だけど、」
近づいてくる気配がわかった。
耳元に口を近づけ、囁く。
「…逃げたくなったら、手伝ってあげるよ」
「…っ?!」
男が言った言葉は、最初上手く頭で考えられなかった。逃がすって?どうやって。
そもそも、今会ったばかりの、しかも見えない相手を信用するなんて不可能だ。
「もちろん、今もう逃げたいっていうなら色々手はあるけど」
「…」
そもそもこいつはあの男の知り合いだ。この誘いだって、もしかしたら俺を嵌める罠かもしれない。
俺が黙っていると、男は「また診察に来るよ」と告げ、去っていった。
「………」
俺を監禁してる奴の名前……蓮矢。
どんな容姿で、何歳で、何をしている人で、どうして俺のことを監禁しているのか。
最初に感じていた疑問がまた沸き上がってきた。
ぽふん、とベッドに沈みこむ。
目を閉じて、過去の記憶を遡る。
高校は、じいちゃんやばあちゃんにお金を出してもらって、バイトしながら奨学金も借りて、何とか通えていた。交遊関係はそこまで広くなかったと思う。
中学は、あんまり人と関わってこなかった。1年の途中で転校したし、これといった思い出がない。小学校…、…は、あまり覚えていないな。
もし出会っているならバイト関係だろうか。
それなら不特定多数と会ってるから、もしかしたら配達先だった可能性がある。
「…蓮矢」
いくら考えても答えは出ない。
早く見えるようになるといい。
そうすれば、きっと何かが変わると信じてる。
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