百夜の君九十九夜のそなた

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百夜の君九十九夜のそなた

『文恋の 百夜の夢よ 憧れては 片瀬の思ひ 幾年ゆかん』 ⎯ここは平安三日月京⎯ 山納小路に住む此月梅世姫(このつきうめよひめ)は心優しくお美しくお過ごしでありました。うららかな春の日、京の中心あたり中京で開かれます市場の店棚に女官と共に出掛けられたのでございます。仲むづましく反物をお選びになられておりました。 そんなお姿を、向かいの蕎麦屋ののれんの奥から見つめる若者が一人おりました。若者の名を時之今左近(ときのいまさこん)と申しました。年格好共に姫様にふさわしくご立派な方でありましたが、京職の官人でありながら優しさのみ先に立ち、なかなか特進できずにおりました。 そんな左近にこの日より恋心が芽生えたのでございます。 「よし、あの娘を我が妻にしてみせよう。」 そう誓ったのでございます。そして、店に頼み筆と硯を借り袖より紙を出して素早く恋文を書いたのであります。 『あなた様に一目で恋に落ちました。突然で驚かせてしまいました。しかし、私の心はもう止められません、どうか今宵よりあなたのお宅へ出まし百夜通いすることをお許し下さい。志しをとげた時には、どうか私の女房様 になって下さい。』                そして左近は慌てて店を出、姫様に掛け寄り恋文を渡したのでございます 。 姫様は、美しいお顔を豆鉄砲の鳩の様になされ驚かれました。お側にいた女官は慌てて、 「姫様に無礼であるぞ!」 と申しました。しかし左近は引き下がらす、 「どうかお気を悪くなさらず、この文をお読み下さい。」 と頼みました。 姫様はお優しくそのお手紙をご覧になり、 「分かりました。お気をつけてお越し下さいませ、お待ちしております。」とお答えあそばされたのでございます。この日より左近の百夜通いの日々ははじまりました。 そして、右京の道祖大路の横へ伸びる野寺小路の自宅を、 「いざ行かん、山納小路の姫君へ。」 と、年老いた母親に告げ出ましたのでございます。 そして朱雀大路を通り富小路を抜けて、山納小路の姫様のご自宅にたどり着いたのでございます。扉を二度叩き持ってきた鈴を二回鳴らし、 「姫様、時之今左近にございます。どうか一夜とお数え下さいませ。明晩また参ります。」 そのお姿を廊下奥の御簾の下から姫様はそっと見ておられました。そして左近の鈴の音を待ち続ける日々が続きました。 『今宵も姫様の元へ…』 と出掛けた九十九夜目のある日、小森を通り抜けながら、 『明日はいよいよ百日目、姫様のためにこの美泥が淵に棲むという金の鰻を捕って参ろう。』 そう心に決めたのでございます。 翌日のいつもより少し早い申の刻に家を出た左近は、思い通りにあの美泥が淵にたどり着いたのでございます。鰻を捕るびくを片手に、木を掴みながらそろりそろりと足を降ろしていきました。もう少しで岸に降りるその時、 「あっ、あぁぁァ。」 木を掴みそこねドブン、左近は淵に落ちたのでございました。 「誰か、誰か助け下さい!」 しかし人通りはありませんでした。 底無し沼の前に叫びは虚しく、もがけばもがく程体は奥底へ吸い込まれていきました。 「今日は、遅くていらっしゃいますね。左近様は…。」 姫様の願いも虚しく、幾日幾月経っても左近が訪ねることはありませんでした。そんなある日、風の便りに美泥が淵の脇から男物の手ぬぐいにくるまれた梅を彩ったかんざしが見つかったと聞いた姫様は、とても悲し嘆かれました。 『左近様…』 『ひと恋の 一夜の夢にやぶれては 今宵も待てり 萌ゆる京』 ⎯ここは平安百瀬鈴⎯             
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