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出発
未央の二歳下の弟、蒼真は、自己愛性パーソナリティー障害かつ統合失調型パーソナリティー障害と診断されていた。しかし、それは問題ではなかった。そんな人間は山ほどいる。犯罪率はパーソナリティー障害を持った人の方が低いという統計もあった。
ただ弟は自分自身と他人を区別することが出来なかった。鏡像段階での自我認識に失敗したことが原因だ。
人は誰でも、生まれてから赤ん坊の間は自分と母親の区別がついていない。成長するにつれて、自分と母親が別の存在だと認識されていく。一歳半になれば完全にその認識ができあがる。
弟にはその認識が育つことはなかった。自分ではない自分がいるという妄想に囚われていた。母親だけでなく他の人間と自分との境を認識することが出来なかった。
成長する過程で姉である未央の存在に異常なほど強い拒否反応をみせはじめた。自分よりも前に両親から愛情を受けていた存在が許せなかったのだ。自分がその存在である姉の未央だと思い始めた。
「ソウくんって誰? あたしが未央よ」
「違うでしょ。未央はお姉ちゃんよ。あなたはソウマでしょ」
「ソウマじゃないもん。未央だもん。あなたは誰? あなたも未央?」
「ソウくん、何をいっているの? 私はママよ」
「そうか、ママか。未央じゃないんだね。大きいし。やっぱりあたしが未央だね」
両親は蒼真が五歳になった時にやっと病院に連れて行った。効果的な薬が存在していたが、蒼真はまだ小さかったため処方されなかった。成長とともに症状は収まるというのが医者の見立てだった。
しかし未央に対する同一視の傾向は強まる一方だった。未央が側にいる時、極端な混乱を引き起こしていた。自分がしゃべろうと思っていないのに目の前にいる自分がしゃべっている。自分が、ここにいるはずなのに向こうから自分が歩いてくる。そんな支離滅裂な感覚につきまとわれていた。
やがて弟は混乱と錯乱を鎮めるために、自分以外の自分を消し去ろうとし始めた。意識上ではなく実際にこの世から消そうとしたのだ。
未央が八歳、蒼真が六歳の時に事件が起きた。未央は蒼真にフォークで襲われたのだ。顔や首や手を滅多刺しにされた。命に別条はなかったが、蒼真はすぐに閉鎖病棟に入院させられた。
それから七年間、蒼真は投薬治療を受け続けた。徐々に症状は改善され、十三歳になった時に主治医は完治したと判断した。異常な行動も言動もなくなり、妄想も譫妄もまったくなくなっていた。そして誕生日の日に退院を許された。
蒼真は両親が迎えに来る前の朝四時半に独りで病院をでた。五時の始発に乗りこみ、六時半に未央の住む街の駅に着いた。そこから徒歩で未央の住むマンションに向かった。出勤する人たちに紛れ入り込み、玄関のインターフォンを押したのは七時だった。
両親は未央と蒼真を会わさないように、未央を祖父母の家に預けていた。完治したとはいえ、未央を見た途端に再発しないとも限らないと医者のアドバイスがあったからだ。蒼真には未央の話は一切していなかった。祖父母の家に預けたことも知らせていなかった。
しかし、どうやって知ったのか蒼真は未央の前に現れた。
登校のため玄関を開けた未央と蒼真は鉢合わせした。蒼真が十三歳、未央が十五歳、七年ぶりの再会だった。
未央は自分が目の前に現れたのかと錯覚した。女装していた蒼真は未央と瓜二つだった。
未央が声を掛ける間もなく、蒼真は右手を突き出した。その手にはフォークが握りしめられていた。先端はまっすぐに未央の喉元に向かっていた。
あっという間の出来事で、未央には避ける暇がなかった。フォークは深々と未央の首に突き刺さった。蒼真はすぐに抜き、再度、突き刺そうとした。
だが、未央の喉から噴き出た血が蒼真の目にかかり、狙いは外れた。
未央はくぐもった悲鳴をあげ、その場に倒れこんだ。首から噴き出す血が瞬く間に未央の学生服を赤く染めていった。
蒼真は眼を拭きながら、倒れている未央の顔に何度も突き刺そうとした。しかし顔をかばう未央の両手に遮られ致命傷を負わせることはできなかった。
それでも額やこめかみ、頬や鼻、耳など顔中に傷を負った。すぐに騒ぎに駆け付けた祖父によって蒼真は取り押さえられた。
蒼真が閉鎖病棟に連れ戻され、警察の聴取を受けるのはそれから一時間後、病院をでてから五時間後のことだった。
事件から十二年、弟の影に怯えて日本中を転々とする毎日だった。どうやって病院を抜け出すのか分からないが何度か蒼真は未央の前に現れた。いつも女装し、未央になりきっていた。自宅や職場の前、最寄り駅などで待ち伏せされた。
未央は蒼真を目撃するや、相手が未央を認識していようがしまいが、駆けだして逃げ出した。家にも職場にも戻らず、手持ちのお金が続く限り、遠く離れ、自分でもどこに来たのか分からない土地で、また新しい生活を一から始めるのだった。
しかし、もう逃げ回る人生は終わりにしなければならなかった。自分が逃げ回っていた結果が、この馬鹿げた惨劇を生んだのだ。
未央が逃げていたせいで、妄想がエスカレートした蒼真は、未央に似た女性を在るべからざる自分と思って殺し始めたのだ。その悪疫は伝染し、一人の警官を狂わせ凶行に及ばせた。その男は犯行を繰り返さないように未央がケリをつけた。さっきまでは自分にその権利があると思っていたのだが、今は分からない。いずれにせよ過ぎたことだ。
近づいてくるサイレンの音が聞こえてきた。
未央は耳を済ませたが、救急車なのかパトカーなのか区別がつかなかった。
自分の身なりを確認した。足の傷からも腕の傷からもまだ血は滲んできていた。失血で意識を失うほどではなかったが、立っている体力はなかった。
ブラウスとスカートの身だしなみを整えようとしたが、黒ずんだ血で汚れていて諦めた。顔を洗いたかったが、どこにあるか分からない洗面所を探しに歩き回る気力もなかった。
このまま大人しく、治療を受けることに決めた。
もう平穏な人生はあきらめた。自らの手も汚したのだ。
明日からは、蒼真を止めることが生きる目的になった。生きるために危険に向き合おうと決めた。どこから始めればよいかは分からない。ただ自分の責任を果たすまでは、死ぬわけにも殺されるわけにもいかなかった。(了)
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