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犯人
未央の背後でドアが開く音がした。
足跡が近づいて来た。誘拐犯は遠回りして、未央の前に姿を現した。
「気が付いたか? ヒヒッ」
公園で未央を襲った男が口を開いた。記憶をたどったが知らない男だった。今日、バイトを休んだ中年男でもなかった。若い女性が珍しいのかいつも未央に湿った視線を送ってくる工場長でもなかった。
皺だらけのスーツを着た見知らぬ中年男。こいつが女性の顔を切り刻んで殺し回っている殺人犯に間違いなかった。
突然、映画のシーンが脳裏に浮かんだ。バイト先の食堂で休憩中に見たテレビ映画のワンシーンだ。その映画では、誘拐犯が相手に顔をさらすのは、生きたまま解放する気がないからだといっていた。
記事で読んだ犯人が目の前にいるのだ。自分が六番目の犠牲者になる。
男の顔を見たせいで、自分の立場が急に真実味を帯びて迫ってきていた。息が浅く苦しくなり何も考えられなくなった。自分は殺される。自分の一生が終わる。暴行を受け、刺されて殺されるのだ。痛いのは嫌だった。どうせ殺されるのなら一思いに殺して欲しかった。
「ヒヒッ、やっと、見つけた、捕まえた!」
男は作業台の前で飛び跳ねた。
「やった! やった、やった!」
天井を仰ぎ見たまま飛び跳ねながら叫び続けた。
男の喉が丸見えになった。垢が首輪のように溜まっているのが見えた。グレーのスーツの上下はよれよれで、革靴は古く薄汚れていた。男からはすえた悪臭が漂っていた。年齢は四十歳か五十歳くらいだと思った。未央はあまり他人の年齢が分からなかった。
男は飛び跳ねるのを止め、作業台にもたれ掛った。ブツブツ言いながら未央を見下ろした。両腕を垂らしパンツのポケットに両手を入れていた。両脇に微かに染みが見えた。脇汗がシャツを通り越してスーツにまで達しているのだろう。
未央は不快なものを目にして顔をゆがめ、視線を下に向けた。
突然、男が大股で近づいて来て、未央の頬を張った。
あまりにも急で、未央には身構える暇がなかった。
パチンという音がして、耳鳴りがし、顔の左半分が火が付いたように熱くなった。痛みに涙が出てきた。ショックで何も考えられなくなった。痛みも涙も耳鳴りも止まる気配はなかった。
男は、未央の顎を掴み上を向かせた。そして乱暴に猿轡を外した。スカーフのようなものを猿轡にしていたようだった。
徐々に肉体が味わった衝撃も引き、耳鳴りも小さくなっていた。しかしそれとは逆に屈辱を味わわされた怒りが未央の中で膨らんでいった。他人に縛られ平手打ちをされたことは許し難かった。顎を持たれて上を向かされたことにプライドが傷つけられた。
ほんの少し前、誘拐犯が素顔をさらしている意味に気が付いた時、未央は半ば生きることを諦めかけていた。死ぬことと釣り合う良い面が見つかれば完全に諦めていたかもしれない。でもそんなものは何も思い浮かばなかった。
だから、ここから逃げ出そうと決めた。痛い思いをするのも嫌だった。
未央は男を馬鹿だと思った。平手打ちが未央の生存本能のスイッチを入れたのだ。そして、自分の人生が、頭のいかれた男に終わらせられるのは間違いだとも思った。血走った目をした薄汚れた悪臭漂う男に、そんな資格があるとは思えなかった。
未央は顔を上げたが、涙が目に残っていたため、男の顔は滲んでよく見えなかった。
瞬きを繰り返し、視界が正常に戻った時、未央は冷静さを取り戻していた。誓いは胸の奥にひっそりと刻まれ、表情からは消えていった。
すぐ近くに寄せられた男の顔は、油に覆われているようでギトギトしていた。目は濁って血走っていた。しばらく寝ていないか、獲物を見つけて興奮しているかのどちらかなのだろう。
未央は自分の視線をどうするか迷った。怒りの視線で男を睨みつけるか、それとも怯えた許しを請うような視線を送るか。どちらが事態を好転するのか分からず、いつもの感情のない視線で見つめ返すことにした。
男は驚いたようだった。怯えの表情、あるいは怒りの表情を想定していたのだろう。だが未央の顔にはなんの表情も浮かんでいなかった。
相手の戸惑った様子は未央にとっては、見慣れたものだった。幼いころから周りの大人も子供も未央の反応には戸惑った表情を浮かべるのだった。
未央は目を伏せた。男に冷静になる時間を与えたのだ。また自分も考えたいことがあった。
この男は「やっと、見つけたぞ」といった。二十代後半の長身やせ型で、黒の長髪の女性を見つけたという意味なのだろうか。
「名前は?」
男が静かに言った。未央を殴ったことで何かが発散されたようだった。興奮状態は去り、目から狂気の色が薄れていた。
名前を聞いてきたことで、男が未央個人を狙ったのではないことが分かった。
未央は答えずに、一瞬、男の顔から視線をはずし男の後ろの作業台をみた。
男は、その視線で未央のバッグの存在を思い出したようだった。作業台に近づくとバッグの中から未央の財布を取り出した。ドラッグストアのポイントカードを見つけて裏面を読んだ。
「仁科未央か。歳は?」
男は財布から、ポイントカードやバイト先工場の入館証を次々に取り出し、目を通すと一枚ずつ放り投げていった。手掛りが無くなると財布も床に放り投げた。
未央は、うんざりした。後で散らばったカードを一枚ずつ拾って砂埃を払いのけ、また財布に戻さなければならないのだ。
「面倒くさい」
つい口を付いて文句がでた。
腕力に自身もなく格闘技の経験も何もなく、手足の戒めをどう解くかも、男からどう逃げるのかも全く分からなかった。
しかし自分が財布を拾ってバッグを肩に担いで無事にここから出て行くことだけは分かっていた。
「何か言ったか?」
男は一瞬、未央を見たが、すぐに手に取ったパスケースに視線を戻した。
「二十八歳か。驚きだな」
定期券に年齢が書いてあることを思い出した。
「老けてみえるな」
男がパスケースで自分の顔を扇ぎながらいった。
「助けてって、泣き叫ばないのか?」
男は面白がっているように見えた。未央をいたぶることに楽しみを見出しているようだった。
未央はこの尋問の行方を想像した。
次に、何を聞かれるのだろうか。男が知りたいことを全て知ったあとはどうなるのだろうか。
考えを巡らせたが何も分からなかった。
「それとも、もう天罰だと観念したのか?」
この質問には答えようがなかった。今までの名前や年齢の質問と異なり意味が分からなかったからだ。
例え分かっていたとしても未央には会話するつもりはなかった。自分を殺すつもりの誘拐犯と会話する理由がなかった。
ただ、天罰という言葉が引っ掛かった。
「まぁ、いい。とにかく、お前で間違いない」
男はパスケースを作業台に置き、未央の側を通って、また出て行った。
未央は縛られたまま、独り取り残された。
今度、男が現れた時は、平手打ちだけでは済まないことは分かっていた。
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