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未央
未央はバッグの中の携帯電話を取る方法を考えたが思いつかなかった。男を操ってバッグを持ってこさせるなんてことも出来る訳がなかった。
別の映画を思い出した。精神科の博士が口先だけで、他人に罪の意識を芽生えさせて自殺させるシーンがあった。
しかしそれはフィクションでの出来事だ。
未央は腕力もないし、人を操る心理テクニックも知らなかった。IQは計ったことはないが人並か人並以下だろう。
現実は映画と違う。未央に殺人犯と渡り合えるような特殊能力はなかった。ジキルとハイドのような二重人格者でもなければ、覚醒前の救世主でもなければ、人間界に潜んでいる宇宙人でもなかった。
ただの二十代独身のアルバイトだった。友達もいなかった。一人きりの弟とも仲が悪く、姉を心配するどころか憎んでいるくらいだった。
何も持っていない未央だったが、頭の中では、自分が死を待つだけの状況だということと、殺人犯の思い通りにはならないということが矛盾無く共存していた。
扉が開く音に続いて革靴の足音がした。
男が一人で戻って来た。手には出刃包丁が握られていた。
未央の正面に立ち、作業台にもたれ掛った。
「お前にも、人の痛みを味わってもらおう」
包丁の刃の横で自分の手のひらを叩きながらいった。
未央は男の持つ包丁から目が離せなかった。考えないようにしようとしても、男が包丁で何をするのか想像してしまい、痛みに身構えてしまう。
「命乞いをするなら今の内だぞ」
未央は体を揺すってみた。パイプ椅子が軋んだ音をたてた。
それだけだった。後ろ手の縛めも、両足の拘束も緩むことはなかった。
男が大股で近づいて来た。
手に持った出刃包丁を振り上げている。
刃が黒ずんでいた。血がこびり付いて固まっているようだった。この男は何人も人を殺しているのだろう。
縛られた手では自分を庇うこともできず、未央は叫んだ。
「天罰って何よ! 私は何もしてないわ」
自己防衛のため咄嗟にでた言葉だった。
だが男の進撃は止まらなかった。
包丁を未央の太腿に突き立てた。
「ウゥッ」
全身に激痛が走った。
「ウゥッ、クウッ」
歯を食いしばるが、痛みに悲鳴が漏れてしまう。今まで経験したことが無い痛みだった。何も考えられなかった。一瞬、男への怒りも、明日のバイトのことも、何もかも頭から消え去った。痛みは全く弱まる気配はなく、強まっていくようだった。
男は包丁から手を離し、作業台まで下がり、痛みに苦しむ未央を眺めていた。
未央の太腿には包丁が深々と突き刺さってまま垂直に立っていた。瞬く間に血が溢れ、未央のスカートに染みを広げていった。
「ウゥッ」
息も出来ず、涙と汗が噴き出していた。我慢しようとしてもうめき声を抑えることができなかった。
頭を上げて男を見ると顔を歪めて笑っていた。
「ケケッ、ざまあみろ」
歯を食いしばり、鼻で呼吸をするようにすると、息が出来るようにはなってきた。ただ痛みは引かず汗が噴き出して止まらなかった。もうこれ以上、痛い思いをするのは嫌だった。太腿を包丁で刺されるのがこんなに痛いとは知らなかった。もう包丁で足を刺されたくはなかった。顔を滅多刺しにされたくもなかった。顔を切り刻まれるのは足を刺されるより痛いはずだ。
スカートも血で汚されたし、病院にも行かないといけない。もう今夜の睡眠や明日のバイトどころではなくなった。
これ以上、男の好きなようにさせてはいけなかった。
「今、防犯カメラの映像で確かめたんだよ。あぁ、気持ちいいぜ」
男が何を言っているのか、分からなかった。完全に頭がおかしいのだと思った。
未央は男を睨んだ。誘拐したのには殺人鬼なりの論理があったのだろう。だがどんなに狂った論理にも未央に当てはまるはずはなかった。
左の太腿の痛みは収まる気配はなかった。太腿からふくらはぎを伝って血が靴の中に流れ込んできた。血は止まる様子はなかったが、激しく流れ出している訳ではなかった。刺さったままの包丁が栓の役目を果たしているのだろう。
「さぁ、死んで償え」
「私が何をしたって言うの?」
「俺を地獄に落としただろ」
未央はまた自分の愚かさに気が付いた。殺人鬼とまともな会話など出来る訳はないのだ。
この男は、罰を与えなければならないという妄想に捕らわれ、若い女性を殺し回っている殺人犯なのだ。
だが何か、引っ掛かるものがあった。
「その防犯カメラの映像を見せてよ。私じゃないって説明するわ」
「はぁ?」
「あんたも、人違いで人を殺すのはいやでしょ」
「人違い……」
男の目が宙を泳いだ。そして中空を見つめたまま動かなくなった。
命乞いが無駄なのは分かっていた。男にどんな言葉が届くのかもわからなかった。ただ、人違いという言葉が男にとって何かのきっかけのようだった。
「ねぇ、聞いてる?」
未央が叫ぶが、男は作業台にもたれたまま、茫然自失の状態だった。
「早く、防犯カメラを見せて!」
未央が何度も叫ぶと、やっと男が未央に視線を向けてきた。まるでたった今、未央の存在に気づいたように戸惑った表情をしていた。
「さぁ、私の手を解いて頂戴。それから足も解いて」
男は返事なのかうめき声なのか分からない声をだして、作業台から一歩、踏み出した。
男が近づいてくる。思わぬ幸運に見舞われた。未央自身も信じられなかった。男が未央の言葉に従って、拘束を解こうと近づいてくる。
男は未央の後ろでしゃがみ、ゆっくりとした動作で手の縛めを解いた。
未央は自由になった手を前に回し、両手をさすって血の巡りを回復させた。
男は夢遊病のようにふらふらと前に周ってきた。
そして未央の足元にしゃがみ込んだ。スカートの裾を捲り、片足ずつ拘束を解いていった。
未央は嬉しさのあまり、もう少しで「ありがとう」というところだった。だが殺人犯に礼など言う必要はないと思いとどまった。
正面で屈んでいた男が顔を上げた時には、すでに未央は自分の太腿から包丁を抜いて両手で振りかぶっていた。抜くときに激痛が走り声が出そうになったが必死に我慢した。未央は椅子に座ったまま、逆手に持った包丁をそのまま男の右目を狙って振り下ろした。
男は悲鳴をあげてのたうち回った。
未央は男の目の痛みを想像しようとしたが出来なかった。太腿よりも痛いのだろうと思ったが、ピンとこなかった。
未央は座ったまま、足を縛っていた布を拾い、太腿をしばった。痛みも血も止まってなかったが命にかかわることはないと思った。
男は呻きながら膝立ちの体制で目に刺さった包丁を抜こうとしていた。しかし、眼窩奥にまで突き刺さっているようでなかなか抜けないようだった。
「防犯カメラの画像ってどこにあるの?」
未央は左足をかばいながら立ち上がった。男から返事がないので、再度、同じ質問をした。男は未央の質問に答えず、ずっと痛がっていた。
早く痛がることをやめて答えてほしかったのだが、返事は帰ってこなかった。包丁を目から抜くことに必死で、未央の質問に一切答えないことにイライラした。
「ねぇ、聞いてるの?」
「お前は、お前は、お前は、お前は何なんだ?」
男が涎をまき散らしながら叫んだ。
子供の頃からよく浴びせられた質問だった。
お前は何なんだとか、普通の子供じゃないとかいわれていた。しかし普通の子供なんてものは、どこにもいない。『普通』を示す具体的な基準がないからだ。人間は誰も個人個人が違う生き物なのだ。
未央は恐怖、共感に乏しいわけではなく、一切、恐怖を感じることができなかったし、他人への共感も意味するところを知らなかった。
恐怖を感じないことに気付いたのは、物心ついてからずっと後のことだった。
それは中学三年生の夏の出来事だった。当時、未央は変わっているという理由で同級生からいじめられていた。教師からも邪険にされることや無視されることもあった。未央に話しかけても、未央から反応を得るのに時間がかかったのだ。他の子供なら理解、解釈できることが、未央の場合、一から、背景、経緯を説明しなければ通じなかった。コミュニケーションが困難だったのだ。
しかし、この時には未だ自分が変わっているという自覚は未央にはなかった。
いじめに拍車を掛けたのは中三の夏の未央の異様な外見だった。顔中に怪我を負っていたため、白い包帯を巻いていて登校していた。包帯でグルグル巻きになった顔から眼と鼻と口がわずかに覗き、頭部には黒く濃い髪が載っていた。後頭部では包帯の隙間から黒い髪がバラバラとはみ出ていた。
包帯で顔を覆いセーラー服を来た女子中学生が未央だった。ミイラ女と呼ばれていた。その呼び名はこの時の未央の見た目そのものだった。その外見で学校に来ることが恥ずかしいという気持ちもなかったし、それが原因でいじめがエスカレートするといった発想もなかった。
授業のために入ってきた教師は一番後ろに座る未央を目撃するたびにハッとしていた。怪我のため包帯をしている未央がいることは分かっているはずなのだが、教壇に立つたびに息を呑むのだった。同級生はすぐに慣れ、未央の異様な姿をからかいの対象にしていた。
その日の一時限目は家庭科で家庭科室で担当教師を待っていた。始業時間が過ぎても、なかなか教師は現れず、生徒たちは勝手におしゃべりをしていた。
「緊急放送。一年五組で緊急事態発生。生徒は教室で待機し、教員の指示に従ってください」
突然、放送が流れた。生徒は皆、不審者の侵入があったことを理解した。
「嘘だろう」
「まじか」
「先生、来ないじゃん」
「避難係! どうすんの?」
一時期、隠語で不審者対応を指示する取り決めだったが、市の教育委員会の指示により直接的な指示を校内放送で流すことになっていた。
生徒たちは耳を済ませて、その指示を待った。だが、スピーカーからは雑音が流れてくるだけだった。
「これからバリケードを作ります」
避難係が皆に呼びかけた。マニュアル通りの対応だったし、避難訓練での経験があった。
机でバリケードを作る手はずだったが、家庭科室の机は固定されて動かせなかった。
「どうすんだよ」
「椅子を使おう」
「椅子なんて意味ないだろう」
「じゃあ、どうするんだよ」
生徒たちは口々に思いついたことを叫び、右往左往していたが、パニック陥ったものは少なく、大半は面白半分の状況だった。
それを未央は椅子に座ったまま不思議そうに眺めていた。おろおろと取り乱している者や、楽しげに奇声をあげている者がいることが理解できなかった。
「キャー」「ギャァーーッ」
部屋を揺さぶるような叫び声があがった。
Tシャツに短パン姿のやせた若い男が扉を開け、椅子を蹴散らして侵入してきたのだ。手に刺又を持っていた。不審者を制圧するための二股に分かれた棒だ。それが不審者の手に渡っていた。
生徒たちは我先に、もう一方の扉に向かって駆け出していた。一瞬で、家庭科室がパニックに陥った。
だが生徒たちよりも男の方が錯乱状態にあった。金切り声を上げヒステリーを起こしていた。そして大声で喚き散らしながら片手で刺又を振り回していた。
一人の女子生徒が、男の振り回す刺又に吹っ飛ばされ、未央の座る椅子の手前で仰向けに倒れこんできた。
男は容赦なく、その生徒を刺又で打ち始めた。生徒は身を丸めて攻撃から身を守ろうとしていた。
男が振り下ろす刺又は彼女の腹や頭、肩を何度か打ったが、大半は床を叩いていた。男は二メートルほどの長さの刺又の取り扱いに不慣れで、逆に振り回されていた。
未央は、その光景を椅子に座ったままじっと眺めていた。今や、ほとんどの生徒が教室の外に逃げ出していた。残っているのは、未央と、男、泣き叫んでいる女子生徒、そして彼女を助けようかと遠巻きに見ている三人の男子生徒だけだった。
「おい、ミイラ女。早く、こっちに来い」
男子生徒の一人が未央を呼んだ。
未央は求めに従って立ち上がった。
「ヒャッ」
男が小さな悲鳴をあげた。初めて未央の存在に気付いたようだった。
未央は男を無視して、出口に向かおうとした。その時、倒れている女子生徒に足首を掴まれた。
視線を下に向けると、女子生徒が涙にまみれた顔を歪めていた。
「助けて。お願い」
未央は、自分に向かって明確に救済を求められたことを理解した。なぜ、この生徒は早く助けを求めなかったのかと不思議に思った。
未央は男の方に向き直った。男と目が合った。血走って焦点が合っておらず、時折、白目を向いていた。それが薬物、ドラッグのせいだと分かった。学校で薬物乱用防止啓発ビデオを見たばかりだったからだ。ビデオが正しければ、男はかなり重症の中毒者で幻覚や幻聴にさいなまれているはずだった。睡眠もろくにとっておらず、食事もしていないに違いなかった。
男は目の前に現れたミイラ女に怯えていた。
ブルブルと震えだしたかと思うと、奇声を上げて刺又を振りかぶって打ち下ろしてきた。
未央と男の間に、女子生徒がうずくまって泣いていた。その生徒に躓き、刺又の重さに耐えきれず男は生徒に覆いかぶさるように倒れこんだ。
未央は間一髪で後ろに飛びのいたため、刺又が当たることはなかった。
男は女子生徒の上からずり落ち、刺又を持った右手を引き寄せ立ち上がろうとした。
未央は刺又を踏みつけた。男は悲鳴を上げて手を引っ込めた。床と刺又の間に挟まり、指を潰されたのだ。
男は手を庇いながら両膝立ちになり、顔を上げた。目の前には刺又を手にしたミイラ女がいた。
未央は刺又を手に男を見下ろしていた。錯乱した男だったが、もう武器は手にしていなかった。無力、非力な男だった。危険は去ったのだ。
未央は片手で刺又を縦に持ち、石突の部分を床にあてた。
「ドン」という音がしたのと同時に男が悲鳴をあげ、這うようにして入ってきた扉から出て行った。
未央は、まだ倒れたままの女子生徒の顔を見て、先ほどの哀願に返答した。
「いいよ」
遠巻きに見ていた男子生徒が駆け寄り、その女子生徒を助け起こした。
男はすぐに警察に逮捕された。
数日が経ち、生徒一人ずつカウンセリングを受けることになった。
未央を担当したカウンセラーは、未央が非常に強い恐怖を受けたため、まだ感情が麻痺しておりショック状態から抜け出せていないと診断した。
だが、あの時、家庭科室にいた五名は、その診断が間違っていることを知っていた。
このカウンセリングをきっかけに未央は自分に恐怖と共感を感じる回路が備わっていないことに気付いたのだ。
この事件のあと、未央に対するいじめはなくなった。顔の包帯は一か月後には取れ、傷も残らず外見はただの女子中学生に戻っていた。
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