秘密

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秘密

「まさか、犯人が女だったとは思わなかったよ。お前に間違いないだろう」  突然、後ろから声がした。  未央が立ち上がって振返ると、誘拐犯が立っていた。  右目から流れ出ている血は乾いておらず電灯の光をうけてぬめりを帯びていた。赤黒い血は頬から顎を伝わり、首やカッターシャツとスーツの右側を汚していた。もう包丁は目に刺さっておらず、男の右手に握られていた。 「お前のせいで、無実の男を三人も殺してしまったぜ。まぁ、性犯罪の常習者で更生の見込みがない奴らだったから死んでも仕方ないがな」 「ここの住所が知りたいんだけど」  未央が尋ねたが、見慣れた戸惑いの表情が男の顔に浮かんだだけだった。 「お前のようなやつをサイコパスっていうんだな。本当にいるとは思わなかったよ。男の変質者が犯人だと決めつけていたのが間違いだった」  男が部屋に入り、戸口のところで立ち塞がった。  未央は机の上を見たが武器になりそうなものはなかった。引き出しを開けると封筒の束が入っていた。  それを取り出して宛先住所を確認しようとしたが、どれも警察署宛だった。 「それは被害者の家族からの手紙だよ。お前が殺した五人の被害者の家族からの手紙だよ。捜査の進展がないことへの抗議だ。直接、電話も掛かってくるんだ。二十四時間、ひっきりなしに剥き出しの悲しみと怒りをぶつけられるんだ。分かるか? 被害者の悲しみが、そしてそれをぶつけられる俺の気持ちが? おまけにマスコミも騒ぎ出し、記者たちに追い掛け回さるんだ。その上、それに便乗して関係ない奴からも罵詈雑言のメールや電話がくるんだ。ネットの正義の執拗さは想像を絶するぞ。ネットでの攻撃は署長や部長にまで及んだんだぞ。俺はかばってくれるはずの上司からも厳しく叱責されたよ。分かるか俺のつらさが?」  男から質問されたようだったが、未央は聞いていなかった。  男が生きていたことにもよい面がある。未央が人殺しにならずに済んだ。  それよりもここの住所が知りたかった。  それにはまず、未央を殺人犯と勘違いして殺そうとしているこの男をどうにかしなければならなかった。しかし包丁を持った男を相手に素手で戦っても勝てるわけはなかった。 「聞いてるのか、お前! うぅっ、おうぅっ」  男は大声を出したかと思うと、嗚咽をもらしはじめた。  未央には男が泣いているのか怒っているのか笑っているのか分からなかった。ただ情緒不安定な状態であることは間違いなかった。 「やっと、俺は解放される。お前を殺せば事件は解決だ。もうこれ以上、被害者は増えない」  男が包丁を構えながら近づいてきた。  男の方が重症の筈だったが、それでも未央に勝ち目はなかった。二度も幸運は期待できないだろう。未央は為すすべもなく、ただ身構えるしかなかった。  男は一直線に近づいてきたが、すぐそばで立ち止まった。未央を警戒しているようだった。 「私を殺したあと、どうするの?」  未央はその隙に疑問をぶつけた。こいつも罪を償う必要がある。未央を殺した後、自首するのだろうか。それとも自分で自分の命を絶って償うのだろうか。  男は未央の視線を正面に受けながら答えた。 「お前には関係ない」 「関係ないわけないでしょ。自首するの? 無実の男を三人も殺したうえに、さらに無実の私を殺そうとしているんだから」 「お前は無実じゃないだろう」 「あそこに映っていたのは私じゃない。私を殺しても殺人は止まらないわよ」 「いいや、お前だ。お前に言われたとき、人違いで無実の女を殺せば殺人鬼と同じになってしまうと思った。だが、もう映像を確かめる必要もない」  男は肩で息をしていた。包丁を持っていない手を時折、右目に持っていく。痛みでしゃべり難そうだった。 「確かめる必要はあるでしょ」 「いや、人を刺せる人間なんてそうはいない。普通の人間は例え自分が襲われている状況でも、人を刺したりできないんだ」  未央は吹き出しそうになった。自分は無抵抗な女を刺しておいて、何て言い草なのだろう。 「だったら、あんたも普通じゃない異常者ってわけね」 「うるさい!」  男が大股で駆け寄り、未央の胸を狙って包丁を前に突き出した。  未央はとっさに自分を抱きかかえるように両腕をクロスさせて体をかばった。  男の勢いは止まらず、包丁の切っ先が未央の左腕を切り裂き、骨に届いた。  腕の中で固いもの同士が擦れる感触がしたと同時に激痛が走った。未央は体を捩じって床に倒れこんだ。  男の一突きは未央の腕の肉を刺し、骨にあたって軌道を変え、未央の肩をかすめて空に突き抜けた。  それを床に倒れた未央が見上げていた。  男は突き出した包丁をゆっくりと引き寄せ、体の向きを変え、未央を見下ろした。  未央の左には机があったが、小さく、椅子も邪魔して下に潜り込むことはできなかった。右には廊下に出る扉が見えたが、四メートルほど離れていた。仮に立ち上がって扉に向かったとしても一歩も進まないうちに男から背後を刺されるだろう。  腕がとてつもなく痛かった。足も腕も刺され大怪我を負った状況が気に入らなかった。さらに自分が床に倒れ、男に見下ろされていることも納得できなかった。  男が未央の両足を跨いで立ち、包丁を両手で逆手に持ち替えた。躊躇なく、仰向けの未央に覆いかぶさってきた。刃先が未央の喉元を狙っていた。  反射的に上げた未央の右足が男のみぞおちに入った。長いスカートが捲れて膝がむき出しになった。  男はうめき声を上げたが、そのまま体重をかけてきた。未央の膝は男との間で折り曲げられなんとか距離を作ろうとしている。男は逆手に持った包丁を自分の顎の下で構え、未央に迫ってきている。  切っ先が未央の首に近づいてきた。  未央は顎をそらして刃先から逃れようとしたが、後頭部は床に押し付けられ自由にならなかった。  未央はため息をついた。一瞬だけ躊躇した。男に触るのが嫌だったのだ。  男の顔は無精ひげが伸び、脂まみれで不潔で気持ち悪く、さらに右目は潰れ、捲れた瞼の皮と血の塊が混ざった傷跡からはまだ血が滴っていた。  その右目を狙うのが効果的なのか、残った左目を狙う方が効果的なのか分からなかったが、残った左目に親指を突き入れた。 「うぅっ」  今度は呻いただけでなく、飛び起き、部屋の入口まで離れていった。床を見ながら瞼をしばたかせている。男が避けるのが早かったせいで、未央の突きは深くまで刺さらなかった。  未央もパソコン机に手を掛け立ち上がった。左腕の傷を右手で抑えるが指の間から血がにじんでいた。  未央と男は、それぞれ壁に背をもたれて対面していた。  男の左目は視力を取り戻したようだ。肩で息をしながら未央に射るような視線を送ってくる。  未央はその視線をまっすぐに受け止めていた。もう未央にできることはそれだけだった。もう自分には抵抗する体力は残っていない。そしてこの男には何を言っても通じない。誰も助けには来ない。  しかし未央はまったく死ぬつもりはなかった。未央自身の手で決着をつけなければならなかった。  未央も男も壁に持たれたままだった。二人とも深手を負い、動けなかった。  突然、電子音が鳴った。携帯電話の呼び出し音だった。  男はスーツのポケットをまさぐり、携帯を取り出した。 「あぁ。本当か? いつだ? 間違いないのか? 間違いないんだな?」  男は未央をずっと睨みつけたまま、会話を続けた。 「どういうことだ、ありえない」  携帯が男の手から滑り落ちて床に落ちた。 「ありえない。また死体が出た」  男の視線から憎しみが消え呆然としていた。下を向き、しばらく何かつぶやいていた。  包丁も携帯の後を追うように床に落ちて音を立てた。  その音に我に返り、未央に視線を向けた。戸惑いの表情を浮かべ頭を左右に振った。 「たった今、犯行が起きた。目撃者がすぐに警察に知らせてきた。警察が駆け付けた時にはまだ被害者に意識があったそうだ」  未央は無表情のまま男を見つめ続けていた。 「お前が、犯人じゃないのか?」  男は混乱していた。答えを求めて未央にたずねた。 「私じゃないわよ。犯人は私の弟よ」 「弟……」 「そんなことより。救急車を呼んでくれない? 大怪我なんだけど」 「ちゃんと説明しろ」 「救急車が先よ。到着までは時間があるでしょ。その間に話してあげる」 「いや、話が先だ」  未央はため息をついた。つくづく思い通りにならない。 「分かったわよ。でも座らせて。もう立ってられないの。こんな固いところは嫌よ」 「来い」  男も座りたかったのだろう。廊下を出て向かいの寝室に向かった。捜査資料や警察バッジがあった部屋だ。  未央はゆっくりと足を踏み出し壁を離れ、一歩ずつ前に進んだ。 「早く来い」  向かいの部屋から急き立てる男の声と、紙が床に落ちる音がした。男と未央がベッドに座るスペースを作っているのだろう。  未央は怪我のためゆっくりとしか歩みを進められなかった。  しびれを切らして男が戻ってきた。 「早くしろ」  未央の腕をとり、引っ張りこもうとした。  未央はよろめき、男の胸に倒れこんだ。同時にその勢いを利用して拾った包丁を突き刺した。  男が掴みかかろうとしてきたが、未央は包丁を持った手を放し、突き飛ばした。男はベッドのある部屋にまでよろけていった。背中をベッドの端に打ち付けながら床に崩れ落ちた。  狙ったわけではなかったが、包丁は男の心臓に届き、動きを止めた。悲鳴も上げることも痙攣を起こすこともなかった。  あっさりと生命は絶たれた。さっきまで未央を殺そうとしていた男、あるいは連続殺人犯を止めようとし、自分が殺人犯になった男は、もうただの物体になってしまった。  未央は扉に持たれ、息切れが収まるのを待った。それから男の携帯電話を拾い、折り返し掛けた。救急車が必要なことを伝えて切った。住所は向こうが調べるだろう。  未央はまたパソコンがあった部屋に戻り、防犯カメラの映像ディスクを取り出した。これを警察に見せるわけにはいかなかった。
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