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誘拐
仁科未央は、首に回された太い腕から逃れようと必死にもがいていた。すれ違った男が急に向きを変え、背後から襲い掛かってきたのだ。
未央は踵で男の爪先を踏み、脛を蹴りつけた。しかし首を絞めつける力は全く緩むことはなく、ただ、うなじに掛かる男の鼻息が荒くなっただけだった。
未央は、突然、ふわりと宙を浮かぶような感覚を味わった。息苦しさを感じなかったので、気管ではなく頸動脈が圧迫されているのだろうと思った。
薄れていく意識のなかで目に入ったのは、噴水の側に立っている時計と、その横で丸く輝いている秋の満月だった。
時計の針は歪んだ黒い縦線となって深夜零時半を示していた。
未央は目を覚ました。椅子に座らされ縛り付けられていた。両手は後ろ手に縛られ、足はそれぞれ椅子の足に括られていた。両足を閉じることが出来なかったが、スカート丈は長く、未央の素足を隠していた。手足の感触から布切れのようなもので縛られているようだった。猿轡をされていたが、目隠しはなく辺りを見回すことは可能だった。
自分の身におきたことが信じられなかった。男に誘拐されたのだ。今まで一度たりとも経験も想像もしたことがないことが起き、何をすべきか分からなかった。泣き叫べばよいのかも分からない。大声を出せば誰かが助けてくれる気もするし、誘拐犯を刺激するだけの気もする。
とにかく、誘拐され椅子に縛られた状態で目が覚めた時の対処法は分からなかった。
未央は考えても分からないことを考えることをやめた。喚くこともせず、暴れることもしなかった。体力を無駄にするだけだという冷静な判断をしたわけではなく、ただ他に考えることを思い出したのだ。
明日のバイトのことだった。
未央は食品工場で品質チェックのアルバイトをしていた。包装後の冷凍ハンバーガーに金属片などの異物が混入していないかを確認する仕事だった。未央の役目は、検査装置がX線を使って検査した結果の確認だった。一日中、白黒の透視映像を見ているだけの単調な仕事だ。相当に年季の入った、ハンバーガー専用に作られたわけでもない検査装置の精度に信頼がおけないために人間のチェックが必要だったのだ。
明朝からバイトだった。早く帰って寝たかった。しかし、それが出来なかった。
物事には悪い面と良い面がある。子供の頃からそう自分に言い聞かせてきた。物心ついてから二十八歳の今までずっと不幸な人生を送ってきた。幸せを感じた出来事を思い出そうとしても思い出せるものがなかった。自分の心に平穏をもたらすために身についた思考法が良い面を見るということだった。
未央は自分でもそれが思考法と呼べるような代物ではないことが分かっていた。単なる癖に過ぎなかった。不幸な境遇を誤魔化し、自分を騙し欺き続けた結果、身についた癖だ。
誘拐されてバイトに行けなくなったと考えるより、誘拐されたためにバイトに行かずに済むと考えればましだ。
男に誘拐されて拘束されている。こんな絶望的な状況にも良い面を見つけることが出来れば少しは慰めになり心も落ち着く。
「わぁぁーーー」
未央は叫んだ。突然のヒステリーに襲われたのだ。一瞬、頭の中で怒りのフラッシュライトが焚かれ真っ白になった。自分の不幸な人生に対する怒り、バイトへの怒り、そして誘拐犯への怒り、この状況への怒りが混ざり合ったものだった。
今度ばかりは自分の不幸を誤魔化せなかった。誘拐と釣り合うような良い面なんてありはしない。バイトに行かなくて済むなんて誘拐と釣り合うわけがない。馬鹿げてる。
腹の底から叫んだはずだが、猿轡のせいでうめき声が小さく出ただけだった。
お尻も痛い。居心地の悪い椅子が未央の意識を現状に引き戻した。
なぜ座席部分が薄く、お尻が痛くなる椅子に座らされているのだろうか。
それは男に襲われ、誘拐されたからだ。
男に襲われたのは深夜の公園を一人で横切っていたからだ。
普段通らない公園を通ったのは、バイトで帰宅が遅くなったからだ。遅番のバイトが入ったのは、乙番の中年オヤジが無連絡で欠勤したからだった。
会社から電話で呼び出しがあり、どうしてもと頼まれてしぶしぶ承諾した結果が、このざまだった。
公園で気を失ってから、どれくらい経ったのだろうか。
未央は首を巡らせて改めて辺りを見た。車が二台は置ける広さのガレージの中にいた。どの壁からも均等に離れた車庫の真ん中で、壁に向かって座らされていた。左側が車が出入りするシャッターでぴったりと下まで閉まっていた。正面は作業台があり工具箱やバケツなどが置かれていた。右の壁、シャッターの対面側の壁にはスペアタイヤが掛けてあった。後ろはよく見えなかった。
床には未央の座る椅子を中心に黒い染みが出来ていた。
電気は明るく車庫内の隅々まで光が届いていた。時計は見当たらず、何時か分からなかった。窓はなかったが、隙間から日光が差し込む様子はなく、連れ去られてから間がないように思えた。自分の空腹具合を確かめてみたが、はっきりしたことは分からず時間を知る役には立たなかった。
誰か探してくれているだろうか。警察に通報してくれているだろうか。そもそも誰か誘拐に気づいてくれているのだろうか。
警察の捜査がどのような手順で進むのか知らないが、独り暮らしで友人知人もいない未央の行方不明が判明するのは、ずっと後のことだろう。早くても一日は必要なはずだ。バイト先の人たちも探したりはしないだろう。無断欠勤が当たり前の職場なのだ。
ひょっとすると永遠に気付かれないかもしれない。いや、いつか誘拐は明るみになるはずだ。しかしその時にはもう自分は無事ではないだろう。
自力で抜け出せないだろうか。
正面の作業台をよく見ると、バケツや車用の洗剤、ホースが置いてあり、その横に未央のバッグが置いてあった。
確かに未央のバッグだったが、自分が置いた記憶がなく、普段の生活環境に存在しないものに紛れておかれていたため、最初は気が付かなかった。
猿轡と椅子の不快さが少しだけ和らいだ。バッグの中には携帯電話がある。それを使えば時間も分かるし、警察に助けを呼ぶことも出来るのだ。
椅子に縛り付けられたまま立ち上がろうとしたが、全く動けなかった。なんとか弾みをつけて椅子ごと近づこうとしたが、力の入れようもなく、椅子をわずかに揺らしただけだった。
ホースやタオルが無造作に置かれていたが、どれもバッグより遠く、使えそうなものはなかった。
後ろ手を擦るように動かしてみたが戒めが緩む様子はなかった。両足首も全く緩む気配はなかった。
シャッターの隙間から突風が吹き込み、砂埃を巻き上げた。とっさに目をつむり顔をそむけた。風はしばらくシャッターを揺らした後、唐突に止んだ。
髪に砂埃が掛かった感触が不愉快で、頭を振って髪の毛を揺らした。
足元に雑誌の切れ端が飛んできていた。作業台から落ちてきたようだった。
未央は少し顔を傾け、足元の週刊誌の記事を読んだ。
『シリアルキラー、現る。 警察の失態、被害拡大』
連続殺人に関する記事だった。被害者が増えたのは発表しなかった警察のせいだと記事は糾弾していた。二年間で被害者は五人。全員が同じ手口で殺されていた。犯人はまだ捕まっておらず、容疑者も浮上していなかった。また記事には被害者の共通点が箇条書きにまとめてられていた。全員が二十代後半の女性。やせ型で背が高く、髪は黒くストレートの長髪だった。全員、深夜の帰宅途中を襲われていた。そして全員、顔を切り刻まれていた。
未央は枠に囲まれた箇条書きを繰り返し読んだ。その共通点は、まるで今日の未央を見て書いたかのようだった。
未央は現実感の消失を感じていた。今、自分に起きていることが本当は過去の出来事なのかもしれない。そんな錯覚を覚えていた。
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