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根岸線の関内駅北口、改札の人混みで雅次は老紳士に声を掛けた。
「どうかなさいましたか?」
年齢を感じさせない頑丈そうな大きな肩幅にチェック柄のカジュアルスーツがよく似合っていた。
「昔はよく来たのですが、すっかり駅も変わってしまったようで」
老紳士は雅次に声を掛けられたことに驚く様子もなく、人波の流れに身体を揺られることもなく、ただただ向かうべき方向を探している。
雅次がこの老紳士を見つけたのはホームの階段を降りるときであった。
同じ列車の乗客たちはまるで川の流れのように改札を目指して黙々と階段を降りていったが、この老紳士が視界に入った瞬間から雅次は何故か気にならずにはいられなかった。
「スタジアムまで用があって」
「スタジアムですか。それなら南口からの方が近かったですが、ここからだって行けますよ」
次の営業先の訪問時間まで余裕があった雅次は、多少遠回りを覚悟で老紳士をスタジアムまで送り届けることにした。
老紳士の先導を務めるように人混みの中を雅次は出口の方へと歩き出した。
月曜日の午後、初夏の陽射しが関内駅前のクスノキを若々しく飾り立てていた。
「本当にありがたい」
老紳士は感謝し、雅次の後に続いた。
雅次は雅次で、肩幅の広い老紳士にかつての祖父の姿をどこかで重ねていた。
「確か今日はゲームがなかったはずですが、球場の関係者の方ですか?」
「大昔のことだけどね」
そんな会話を交わしながら、雅次は老紳士のゆっくりとした歩調に合わせ歩くようにした。
「お仕事は何を?」
「機械メーカーの営業です」
「どんな仕事もいろいろと大変ですな」
会社内の自分への評価に対する不満を先程の根岸線でも考えていただけに、雅次は老紳士に見透かされているようで気恥ずかしくなった。
スタジアムを目の前にした大きな交差点の信号機が黄色から赤色に変わった。
「働き始めてどれくらいになるんだい?」
「大学を出てから、4年くらいですかね」
交差点をバスが大きなカーブを描いて曲がっていく。
「テストから脱却し始めている頃かな?」
「テストから脱却?」
眼の前を行き交う車の騒音で聞き間違えをしたのかと思い、雅次は老紳士に聞き直した。
「人間にも慣性の法則が当てはまるからね」
信号を渡った先にあるスタジアムを眺めながら老紳士は一人で頷いてる。
その横で雅次は老紳士の意図するところを探り当てようとした。
「テストってのは100点で満点を取ることできるでしょ」
「はい、100点取れば満点ですね」
「だけど仕事って100点満点が取れないようになっているからね」
「え?どういうことですか?」
雅次が老紳士の顔を覗き込んだ時、大きな交差点の信号が変わった。
「青色になりましたよ、進みましょうか」
ゆっくりとした歩調で歩く老紳士の後を雅次が追った。
「たとえば目標とする営業ノルマを100%達成したからといって、それは満点じゃないでしょう」
雅次には思い当たるところがあった。
何度か個人の営業目標を達成したことはあったが、自分の思う通りの評価を会社がしてくれたという達成感が満たされることはなかった。
「テストと違って、そんなものなんですよ」
雅次は老紳士に置いてきぼりにならないように後を追った。
「学生の頃はテストがあって100点満点があった。社会に出れば、どんなに頑張ったって100点満点なんて取れはしない。そもそも100点満点なんて存在しないのだから当たり前のことなんだけどね」
「100点満点は取りようがないっていうことですか」
雅次は営業成績を達成するだけでなく、上司や先輩、同僚、後輩との良好な人間関係を築く努力もしてきた。
それはまるで全てにおいて満点の100点を目指すような、会社からだけでなく全員から評価されなければならないという脅迫観念に似た感覚であった。
納得のいかない上司の指示もなんとか受け入れ、心無い社内の人たちとも軋轢を生じさせることなく問題を解決へと導くべく汗をかいた。
ただその結果に得たものは、学校のテストで100点満点を取ったときのような、周りの誰もが雅次の努力を、一点の曇りもなく称賛してくれるような快感に似た感覚とは程遠いものだった。
「多くの人から認められている人間を、自分だけは絶対に認めないという人間が必ず存在しているからね」
老紳士は歩を止めて、遅れがちな雅次を振り返った。
「なるほど、だからそもそも全員に認められること自体が不可能なことだということですか」
「学生の頃はテストの点さえ良ければ希望する進路の合格を勝ち得ることができただろうが、社会はその点は違うってことだろうね」
老紳士は雅次が追いつくのを待って続けた。
「小さい頃から100点満点を目指してまじめに取り組んできた人間には少し残酷なようだけどね」
雅次は老紳士の横を遅れないように歩きながら必死に考えている。
改めて100点満点を目指さなければならないものだと思いこんできた無意識の自分自身に気がついた。
「小さい頃から長く慣れ親しんだ無意識の習慣を変えるというのは、そう簡単なことじゃないよね。徐々に速度を落としていかないと、さっきの根岸線が急停車したら乗客はすっ転んでしまうからね」
「慣性の法則ですね」
雅次はこのところしきりに感じていた曇った気持ちに光が射してきたように感じた。
老紳士のゆっくりとした歩調であっても、終着地点であるスタジアムは着実に近づいてきていた。
雅次はこの際、この老紳士に聞いておけることを全て尋ねておきたい衝動に駆られるようになっていた。
「それじゃあ、100点満点があったテストって、なんの意味があったんですか?」
「数字っていう道具は使いようによっては毒にも薬にもなるからね。褒めて育てる時には数字を使うと効果的だが、𠮟り正す時に数字を使うと単なる冷酷な武器になってしまうだろうね」
「じゃあ、社会ではテストの代わりに何を基準に過ごしていけば良いのですか?」
スタジアムのそこだけ不自然に開いているゲートにたどり着いた老紳士は安堵したような微笑みとともに、問いに答えるように雅次の胸の辺りを指差しながら暗がりへと消えていった。
「自分・・・?」
雅次は老紳士が指差した自分自身の胸の辺りをしばらくの間、眺めていた。
公園にも植えられているまだ若いクスノキが太陽の光を存分に浴びて、これからの本格的な夏に向かう準備を着々と進めていた。
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