泥だらけの僕ら

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泥だらけの僕ら

翌月の木曜日。あれからひと月。俺はまたもや、「シャバ」に出られた。と言っても佐伯先生の自宅。あの日の罰としてきょう1日だけ、先生の家で問題集をひたすらやらされている。……しかし俺にはこの上なく嬉しい罰だ。 脱走は世間には公にされなかった。もし俺が見つからず捜索届けなど出されていたら、またあっという間に施設の前がマスコミでごった返してたところだった。そう考えれば軽率だった。だが俺は朝のうちに戻るつもりではいたのだ。 藤岡さんには、ひっぱたかれて抱きつかれて泣かれた。ひっぱたかれたのはさすがにビビった。腫れもの扱いで注意されて終わるのかな、と思って油断してたからだ。しかも平手なのにけっこう重かった。賢介さんも後藤さんもビビってるのが顔に出るくらい、いい音してた。佐伯先生だけがニヤニヤ笑ってたけど。 ー「ほーら、よそ見しない。猫はあと。」 俺の視線の先には、先生たちが昔から飼ってる茶色い猫、それからミケが同じクッションで団子になって眠っていた。こいつ、後部座席に飛び乗ってきて、何度おろしても乗り込むから、賢介さんが「もーいいんじゃん?」と言って連れてくることにしたのだ。飼い主はなく、友達はうみと俺だけだったし。 日比野じゃなくてもちゃんと高校に行きたいから、俺は1年前にやってたところの続きから勉強を再開した。なんでここに来れたのか詳しくは知らないけど、きっとあの脱走劇は俺がどこにも行けなさすぎて爆発したせいだと思ったのかもしれない。別にそんなつもりじゃなかったのだが、けどこれほどに好転してくれたことには感謝している。先生も講師を辞めて1年経つとはいえ、さすがはかつての「エリアナンバーワン」の男だ、あの頃とまったく変わらぬ指導っぷりに少し感動した。 きょうはここに泊まって、明日の朝、賢介さんに施設に送ってもらう。今夜は3人で外に食べに行くのを、俺は先月からずっと楽しみにしていた。家族とすら外食なんてほぼなかったから、ふたりとは親ほども離れてないけれど、ここんちの子供気分を味わえるのはなかなか愉快だ。賢介さんも、「パパふたりの新型家族だ。」などと言っていて、俺はそのとき久々に心底くだらねえなあと思ってなにげなく笑ったのだが、その感覚があまりにも久々すぎて新鮮さすら感じたほどだ。 休憩タイムになり、俺はクッションの獣2匹のあいだにそっと顔をうずめた。チラチラ見てたのは、この部分があまりにも気持ちよさそうで気になって仕方なかったからだ。ミケは、涼と名付けられた。なんせこの茶色の猫が、ぐうぜんにも「海」という名前だったからだ。海と涼は鬱陶しそうな目でまんなかの俺を一瞥して、また何事もなかったかのように眠った。 あの日、俺が脱走した朝焼けの日。 車の中で、先生に何故あそこに行こうと思ったのか尋ねられた。ちなみに先生が来た理由は「なんとなく」らしいけれど、「なんとなく寂しい気分が晴れなくて」虹の森に行こうと思ったのだそうだ。それで、「先生、それ俺と同じだよ。」と言ったら、「それなら、今度から後藤さんとか藤岡さんに直接行きたいと頼んでごらん。」と返された。 もしあの場所に行きたいなどと言ったら、きっとまた退院が延びてしまう……そんなくだらない妄想に駆られ、俺はもっとまずくなることをやらかしたのだから、本末転倒で本当にバカだ。ちょっと笑える。 「でも………」 「なに?」 「でも……、もう行かない。」 「行くことが悪いと思ってるの?」 「ううん。……言いづらいんだけど……」 ラジオから流れる曲に、賢介さんが小さく鼻歌で歌いながら、運転席の窓をちらりと見た。 気を使うなアピールなのがバレバレだ。 「なんか、うみに会えそうな気がして。てゆうか会いたかった。あそこに行ったら、俺の頭がおかしくなって、幻覚で見れるんじゃないかな、みたいな。それだけだったんだ。でも当然見えないじゃん。だからもういい。それがわかったからもういい。」 「………そう。でもね、会えるとしたら幻覚なんかじゃないよ。思い出というのは、土地に残るんだ。またいつか行ってごらん。」 「そうかな。それならまあ、いつかね。」 バックミラーをちらりと見たら、賢介さんが目をほんのり赤くして、少しだけ瞳が潤んでた。「あー、やっぱさっきからまぶしくて見えねえ……」と言って、わざとらしくサングラスをかけていた。
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