番外編5、闇の深淵から見上げる澪標

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番外編5、闇の深淵から見上げる澪標

この世の唯一の命綱であるかのように、強張る腕を和寿の首に巻き付ける。 涙でグチョグチョになった顔と心臓の打ちつける音まで聞えそうな胸をすり付けるようにしてすがりつく、傷つきやすいやわな赤子のような日々希を和寿はしっかりと受け止めた。 あやすように和寿は震える背中に腕を回して軽くぽんぽんと叩く。 「ひびき、もう大丈夫だから」 言葉が染み入ったのがわかる、ああ、、と安堵のため息。日々希の体にさざ波のように最後の大きな震えが全身に走る。 腕の中でキツく結ばれた緊張がほわっとほどけていく。 和寿はすぐには愛しい体を放さない。 怯える日々希を本人がもう充分だと思えるだけしがみつかせてあげる。 闇の深淵から彼が目指して浮かび上がってこれる、確かな存在感のある澪標(みおつくし)になりたいと思う。 「僕は、また、、、」 何度か涙を払うようにまばたきをして息をついた日々希は、ようやく和寿から体を放してばつが悪そうに鼻を啜った。 ベッタリと涙か鼻水か、それらが一緒になったものが、シャツでは押し止めきれず、和寿の胸にまで冷たく濡らしている。 京都の町でコンビニ強盗の喉元に突き立てられたナイフに、日々希は我を忘れたのだった。 以前胸の傷痕について尋ねると、ポツリと日々希は話したことがある。 子供のころ、怪しい宗教の集団にさらわれて、その心臓を邪神に捧げられたことがある、と。 石の祭壇に寝かされ押さえつけられ、文字通りえぐり出されて、角のある神の供物となった。 「普通、それで即死だよね? でも僕は奇跡的に助かったんだ。父が壮絶な儀式の現場に乱入し、二つに分かれた僕の肉体を取り戻して、心臓と僕を氷詰めの仮死状態にして、とりだされた心臓を自家移植したそうだ」 そんなことがあるのだろうか、和寿は半信半疑である。 最新の設備の整った病院の手術室で、ナイフを握る者は外科医であり、日々希の心臓を移植手術をするかのように慎重にメスを入れ臓器を取り出したのなら、それも有り得るかもしれなかったが。 「それは誰に聞いたの?」 「母に。僕はまるっきり覚えていないので、そうかもしれないし、違うかもしれない。でもコレはナイフの傷であることに違いないんだ。だから集団とナイフに過剰に反応する。田舎を出るまではっきりと自覚してなかったんだ。 こんな話誰にもしたことがない。信じてもらえないだろうし、、」 和寿は、日々希の大人数恐怖症と、壮絶な戦い方を思いだす。 ホラー小説のような、子供の頃にサバトの集団に心臓をえぐられたところまでいかないまでも、幼い日々希の身に10年たった今でもPTSDを発症させる何かがあったのは確実なのだろうと思う。 日々希は脇を締め付け、震える手の平を握った。 「そんなに握ると傷つけるぞ、、、」 和寿は強く握られた拳を包んでそっと開いた。一瞬、抗おうとするが、なされるがままに指は開いた。てのひらは血の気がなくなり真っ白で、爪が食い込んだ赤い半月の印がくっきりと刻まれていた。 「、、、怖いんだ。西条の時も、太一の時も、今回のようにコンビニ強盗を相手にするときも、僕は強いみたいだ。父親が二度と僕が被害者にならないようにと遊びに巧妙に仕込まれたものや学校で学ぶ柔道やらが、なんの躊躇いもなく凶器をもつ相手を打ちのめす。 僕はいずれ人を殺めてしまうかもしれない。それが正当防衛と言われるものかもしれないけれど、過剰な防衛反応で、、」 「心配するな、己を失いどんなに暴れてもお前を引き戻してやる」 顎を引き上げ唇を重ねる。 キスはしょっぱい涙の味。 「本当に?ならいつも僕をそばにおいていて。僕が僕でなくなって戻らなくなりそうで怖いんだ。自分を見失ったときに、引き戻して、、、」 「わかった。約束する」 ようやく安心したのか日々希の頬に赤みが差して笑顔がおずおずと戻ってくる。 その夜、和寿の腕の中で日々希は眠る。 この老舗の旅館特製の石鹸のいい香りのする肌に、和寿は手を滑らせる。 十分にお互い快感を与え引き出し、若さゆえに容赦なく奪いあった、満足したはずの体は甘い残滓に触れたのかピクリとする。 箱庭に面した和室に、張りのある麻シーツの布団に二人は潜り込んでいた。 りんりんと涼しげな松虫の音が日々希の寝息に重なる。 今のところ、防衛スイッチが入った日々希より強いものは現れていない。 とはいえ、ナイフを持った相手が日々希を上回る強さで圧倒する時がこないとはいえないではないか? 明晰な和寿には日々希がきちんとPTSDに向かい合う必要があることは理解していた。適切な治療やカウンセリングが必要だろう。 だが、もう少し和寿は日々希を闇から掬い上げられる唯一のあたたかなよりどころでありたいと思う。 普段のほわっとした優しさの鞘から現れ出る、鋭利な刃のような触れなば切れんばかりの日々希も、実は和寿は気に入っていた。 そして、怒れる日々希を鎮めることができるのは今のところ和寿だけなのだ。 日々希にとってなくてはならない存在は自分であるという感覚はたまらなく和寿を満足させた。 もうそれも終わりにしなければならないと和寿は思うのだが、手放せなかった。 「あなたには俺を絶対に必要だと思ってほしいから、もう少しだけそのままでいてほしい。俺だけにしがみついてくれ」 和寿は日々希の体を引き寄せて眠りに落ちる。 かつて眠れない夜を過ごした片鱗もなく、熟睡したのだった。 (完)本編は続きます。
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