0.1秒の飛翔

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0.1秒の飛翔

彼女の突拍子もない話を聞いたとき、俺は大学時代に教えてもらった素数ゼミのことを思い出した。 実験が終わると教授はこんなことを言い出したのだ。 「――岩瀬くん、素数ゼミを知っているかい?」 数学の講義ですかというような返答したと思う。 「ゼミナールのゼミじゃないよ。ミンミンとか、ツクツクのほうだ。昆虫の」 教授は少し笑うと、こう続けた。 「素数ゼミはね、素数の周期で大量発生するんだ。一三年とか一七年とかね。どうしてだと思う?」 「えーと、その周期ごとに彼らの餌が大量発生するからですか?」 ――惜しいな、教授はそう言った。 「生存のため、という理由は当たっているよ。でもそうじゃない。 いいかい、普通のセミは成虫になるまでの期間にバラつきがあるんだ。環境によってね」 教授は煙草に火を点ける。 「でも素数ゼミはそうじゃない。遺伝子によって決定していると考えられている」 「遺伝子によって?」 「そうだ。元々は様々な周期のセミがいたと考えられているね。でも素数は他の数字との最小公倍数が大きくなる。つまりほかの周期のセミとバッティングすることが少なく、生き残ったとされている」 「なんだか――悲しいですね」 教授は不思議そうな顔をした。 「どこがだい?」 「なんというか、遺伝子レベルで運命が決まっている気がして。自由度が低いというか、プログラムされている、というか」 教授は一つ頷いて、 「ああ、そういうことか。自分が自由だと思っている、いかにも人間らしい発想だね」 感情論をぶつけたのがいけなかったのか、とそのときは思った。 しかし教授が何を思っていたかは数年後に知ることになる。 九日間あるゴールデンウイークの最終日。 憂鬱成分一〇〇パー増しで俺は目覚めた。 明日になればもう仕事か……。 長いと思われたゴールデンウィークも今日となればあっという間。 またあの仕事漬けの日々が始まる。 自宅と会社の往復。 ルーチンワーク。 誰のためになっているのかわからない作業。 自分の力では変えられない職場環境。 やる気のない上司に近づいていく自分。 この数年間で心はもう擦切られていた。 ああ、仕事嫌だなあ……。 こんな毎日に意味があるのかな……。 ――そんな思いを振り払おうと、煙草を吸うべくベランダに出た。 腰を抜かしそうになる、とはこのことだと思った。 ベランダに少女が寝ていたのだ。 見た目はたぶん、一六、七歳くらい。 俺より十コほど若い計算になる。 服は着ているし、汚れていない。しかし荷物は持っていなさそう。 ただなにより不思議なのは―― 「ここ、三階なんだよなあ……」 どうやって登ったんだろう。 不法侵入だよな。警察を呼ぶか? いや、危害はなさそうだし、まずは起こしてみるか――。 そのとき、少女のピンと背を伸ばした真っ黒なまつ毛がピクリと動いた。 「ん、ああ、おはようございます」 「ああ、ええ、おはようございます」 良かったコミュニケーションがとれる。 じゃなくて。 「あの、キミだれ? どうやって登ったの?」 少女は周囲を見渡した。 そして一瞬だけ考える素振りを見せたあと、喜色満面でこう言った。 「私、セミなの。登ってないよ、飛んできた!」 ――前言撤回、コミュニケーションのとれない子だった。 俺は貴重なゴールデンウィーク最終日になにをやっているんだろう。 そこには一生懸命にご飯をモリモリ食べる少女がいた。 「ありがとうございます。ご飯まで頂いて」 「それ食ったら帰れよ、あとここに居たこと言うな」 「なんでです?」 「キミの命の恩人が捕まるからだよ」 へえ、そうなんですか、と箸を休める暇もなく食べ続けている。 もしかして数日間なにも食べていなかったのか。 「――で、言いたくなかったらいいけど、なんであんな所に居たの」 丸みを帯びた大きな目と柔和な表情をつくる眉毛が器用に動く。 「さっきも言ったじゃないですか。飛んできたって」 こいつこれで通す気か? 「あ、信じてないですね、証拠見せますよ」 「飛んでみせるってか」 「はい、見ててくださいね――」 彼女はおもむろに立ち上がると、胸を反らして少しだけジャンプした。 それで飛んでいるつもりか――と思ったのは一瞬だけ。 彼女は確かに空中で静止していた。 「どうでしょう。飛んだでしょう?」 「……なんだこれどっきりか? カメラで撮られているのか」 だとしたら重大なプライバシーの侵害だ。 「そんなわけないでしょうが」 彼女は子どもをたしなめるような顔でこう言った。 「ですから本当にセミなんですよ」 彼女の話をまとめるとこういうことらしい。 一つ。彼女はセミである。 一つ。八日前に羽化したばかり。 一つ。ただし寿命は羽化してから九日とちょっと。 一つ。地中で人間の話が聞こえてきたから人間界のことはわかる。 一つ。なぜ自分が人間と同じ姿をしているかはよくからない。というか細かいことは知らない。 ――信じるほうが馬鹿らしい。そう思った。 しかしさきほどの空中飛行。あれは本物だ。それは信じざるを得ない。 「で、何年間地中に居たんだ? なぜ服を着ている? どうして髪の毛は整っている?」 彼女はまた質問、とばかりにちょっと鬱陶しそうだった。 「んー地中にいたのは百コ季節を超えるまでって決まっているの。四季で四カウント。服は飛んでる途中で干していたものを拝借して、髪の毛はセミだけにずっとセミロング――なんつって」 ――どこの世界に冗談を言って、頭を掻いて、舌を出すセミがいる。 「羽化してから九日後に死ぬってのは?」 「本当だよ。つまり今日を超えてほんのちょっとしたら死んじゃう」 「どうして」 「どうしてなのかな――運命とか?」 にへら、と笑った。 「信じてくれなくてもいいけどさ」 でもさ、と、 「人間はさ、百年くらい生きるんでしょ?」 「たとえ長く生きてもいいことなんてない」 俺は考えるより先にそんなことを言っていた。 「どうして?」 「生きるためにはご飯を食べる、ご飯を食べるには金を稼ぐ、金を稼ぐにはいろんなことを犠牲にする。楽しいもんじゃない」 「そうかなー。私はそうは思わないけど」 いつの間にかタメ口になっていた。まあいいけど。セミだし。 「たったの八日間だったけどすごく楽しかった。いろんな人と話して、いろんな場所に行って。やりたかったことたくさんしちゃった」 土の中で考える時間だけはたくさんあったからね、と加えた。 この笑顔が嘘をついているようには見えない。 「――もう死んでもいいと思えるほど、楽しかったか」 言いながら俺はそんなわけない、と思った。 こいつの話が本当だとしたら、ひどいことを言っている――とも。 百コの季節を土の中で過ごして、たったの九日とちょっとだけ外に出られて。それで満足するわけがない。 今度は困ったように笑った。 笑顔だけで俺の表情のすべてのバリエーションより多そうだった。 「死んでもいいか、と言われると難しいね」 ほらな―― 「死んでもいいと思うし、そうじゃないとも言える」 どういうことだ? 「つまりね、私の運命はある程度決まっているの、最初から。人間は運命を後付けする癖があるでしょ? ああ、これが運命の恋だったんだって。それは大抵の場合あとづけ。私は違う。最初から決まっているの。でね、そのなかで――自分の手の届く範囲の中で――私は精一杯楽しんだ、と思ったわけだ。特に運命に抗おうとも思わない。そういう意味では、死んでもいいと思っている」 今度は悲しそうな笑顔。 「ただね――例えば、こういう最終日に楽しいことがあるとどうしても心残りになる。もっと早い段階で出会っていれば――とかさ。そんなこと言っても、どうせ全部で九日ちょっとしか生きられないんだけど」 ――これを聞いたとき、どんな顔をしていたのかは自分ではわからない。 ただ俺は、俺は、このゴールデンウィーク中なにをしていたんだろう、と考えていた。 ただ家の中でだらけていただけだ。 いつも仕事で忙しいのだから、これくらい当たり前だとぼやっとしていただけだ。 特にこれから先のことを考えるわけでもなく。 過去のことを懐かしみ、未来のことを嘆いていただけだ。 今、この瞬間のことなんか、考えてもいなかった。 「どうしたの、黙っちゃって。変なこと言っちゃったかな」 「キミの人生全体を例えば百秒とすると」 「ん? まあ人生というかセミ生だけどね」 彼女はまた笑った。今度は心から楽しそう。 「――そう計算すると、地上に居られる期間は約〇・一秒しかない」 たったの〇・一秒だ。 じゃあさ、と彼女は言う。 「その〇・一秒でさ、私は満足できたんだ。それってすごく幸せでハッピーなことだと思わない?」 俺はこの瞬間、不本意ながら羨ましいと思ってしまった。 ――幸せとハッピーは同じ意味だよ。 俺は静かにクスリとした。 「えー。笑うとこじゃないよー」 それにさ、と付け加える。 「今日のこれからの時間はまだまだ楽しめるじゃない?」 俺はもう、こいつがセミかどうかなんて、どうでもよくなっていた。 「じゃあもういくよ」彼女は言った。 気が付けば二十四時。 俺が過ごしてきた八日間を一つにしても、今日のほうがよほど大切な一日となった。 「なんか帰りたくなくないな」 ――いや、彼女に変える場所なんかないはずだ。 「じゃあ百コ季節超えたらまた来るからさ」 また来る? 「言ってなかった? 私、死ぬけど自分の卵を残すの。その子が地上に出てくるのがまた百コ季節を乗り越えたあと。その子には私の人格? セミ格? は残っていないけど――姿かたちは私と同じだから」 ちゃんと気づいてよね、と。 ああ、クローンみたいなもんか。 つくづく不思議なやつだ。 「わかったよ。そしたらまたご飯たべさせてやる。 そのとき俺はもうおっさんだけどな」 彼女は出会ったときと同じく満面の笑みで頷いた。 ――次の私をよろしくね、と言いながら。 少女は飛んで行った。 百コ季節を超えた、遠くの空へと。 俺はそのあと、ただ――ただ、ぼんやりと星空を眺めていた。 どうやらもう、夏の匂いがするようだった。
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