第一話 闇に悪魔は舞い降りて

1/1
29人が本棚に入れています
本棚に追加
/24ページ

第一話 闇に悪魔は舞い降りて

 それは夕日の残照を背に、黒い大きな翼を広げて村に舞い降りた。  畑仕事を終えたとある農夫は、最初は烏だと思い気にも留めなかった。ゆえにその黒い影がすぐ側にまで近づいて来た時、彼は抗うこともできず宙空に掴み上げられた。短く悲鳴を上げたその首が最初に、続いて手、足、胴体が所々食い千切られた状態で次々に音を立て落下していく。  農夫の妻は夫の帰りが遅いのを気にかけ、様子を見に外に出た。陽が既に沈んでいたので暖炉の薪を手に畑の方へ向かう。大声で夫の名を呼び、返事がないのに苛立ちながら馬小屋に足を向ける。小屋の扉を開け、物音がする方に炎を翳すとそこには────。  両親が戻って来ないため食事にありつけないでいる二人の兄妹は、ドアが開く音を聞いて急いで食卓の席に着く。その日は聖人の生誕前夜祭であった。パンはいつもより多めに用意され、七面鳥の丸焼きも暖炉の炎に炙られていた。  肉汁の滴り落ちる音に混じり、南瓜スープの煮えたぎる音も聞こえてくる。それらの香りが部屋中に(あふ)れているのだから、食欲を抑えろと言う方が無理であろう。  はやる気持ちを隠しきれず、落ち着きなく両親を待つ幼ない子供らの前に、見たこともない女が姿を現した。  肌は不気味なほどに白く、黒い髪に漆黒のドレス。一見して高貴な出自だと知れる佇まい。だが、どこか普通ではない輝きを放つ、ぬめりを帯びた瞳が二人の幼子を捉え、口元から胸元までが赤黒い液体に(まみ)れていた。  二人は恐怖の余り震え始めた。女が無言のまま、おもむろに何かを放り投げる。食卓に転がったそれは、鮮血滴る母親の首。少年が、続いて妹も金切り声を上げた。女は有無を言わせず二人の首を掴み上げ、喉笛を噛み千切り(ほとばし)る鮮血を貪った。     悲鳴を聞きつけた付近の村人も、何事かと様子を見に来たところを次々に襲われ、なす術なく食い殺された。    結果、数十人からなる小さな村の九割近くが殺害された。生き残った少年の証言から、村人を襲ったのは悪魔にとり憑かれた女の仕業であると知れた。周辺の住人たちは、それが遥か昔に打ち捨てられた悪魔の城に住む魔女と信じて疑わなかった。 §  百年にわたる度重なる被害を受け、新たに即位した若い国王は勇猛果敢な若手将校を中心に、三百名の騎士団を結成させて悪魔の討伐を命じた。  悪魔が棲むとされる廃城は峻厳な山脈の奥地にある。一月近く慣れない山道を行軍したこともあり、兵には疲弊が蓄積していた。  そして目的地まであと僅かに迫ったとある夜、歩哨が闇夜に蠢くものを見つけた。 「おい、そこで何をしている!!」  物盗りか、獣か。兵士が松明を掲げ、厳しい声で問い質す。横たわる馬に被さる人影が蒼白の面を上げ、血で汚れた口元をグチャリグチャリと動かしていた。  白い両腕は血に穢れ濡れ光り、その背中からは蝙蝠のような巨大な翼が生えていた。  黒髪の間に覗く異様な両眼に射すくめられ、青年兵士は恐怖に震え始める。濁り澱んだその瞳は、が人の尊厳という概念を欠片も持ち合わせていないことを雄弁に物語っていた。    女がふと黒雲流れる空を見上げ、調律の狂った弦楽器のような咆哮を響かせる。耳をつんざく奇怪な声に耐えかね、その場にいた兵士らが耳を塞いだ。  何事かと集まってきた兵士の一人が、彼女を見つけて矢を放った。風切り音を立てた矢はしかし、目標を捉えることなく虚空に消えた。直後、その兵士は背後から素手で胸を貫かれ、悲鳴を上げる間もなく絶命した。  隣の兵士は振り向きざまに首を跳ね飛ばされた。別の一人が腹部を抉られ、内臓を掻き回され、生きたまま自らの肝臓を貪り食う女の目前で小便を垂れ流しながら死んだ。腰を抜かした残り二人の兵士は襟首を捕まれて互いの頭部を思い切りぶつけられ絶命した。    将校が一連の惨事に気が付いた時には、物言わぬ屍だけがそこに散乱していた。横たわる遺体は全て、その顔を恐怖に歪ませている。ここで撤退を決めていれば、将校は臆病の誹りを受けながらも損害を抑えることに成功したのかも知れない。しかし王が名誉をかけて送り出した手前、何の成果も無しに撤収することは彼の自尊心が許さなかった。  怯える配下を叱咤しながら、やっとで目的の城に辿り着いたのは激しい嵐の夜であった。女──魔女や悪魔と噂される正体不明の化け物──の度重なる襲撃によって、兵士は既に十も残っていない。  漆黒の闇の中に、目的の魔城が聳えている。断崖絶壁の頂上に築かれた堅牢な城塞。岩山を流れ落ちる水が洪水の如く岩石を叩き、そこかしこで飛沫を上げ、時折鳴り響く雷鳴が一行を地獄の門へと誘うように割れんばかりに空気を震わせる。  峻厳たる山奥の荒廃した城は麓の民には永らく畏怖の的であった。かつて栄華を誇りし王の居城として築かれた城塞には久しく主もいない。しかし、周辺を通った樵や旅人が麓に降りては語るのだ。真夜中、享楽に溺れる悪魔が、その狂おしい咆哮で大気を震わせていたと。  それは滅びし王国の、怨嗟に満ちた死霊たちの叫びにも思われて、屈強な男達をして心胆寒からしめ、即座に逃げ出させるほどのものだったと。噂を知る者は皆これを懼れて近づくこと久しくなかった。  城に向かうただ一本の通路である石橋を、将校は僅か五名にまで減った配下と共に渡り始めた。  ぬかるんだ石畳は思いのほか滑りやすく、一歩一歩踏みしめるように歩む必要があった。不安に満ちた眼差しで前方の暗がりを凝視しながら進む彼らには、出発時に見られた快活さは影を潜めていた。    そして尚も、天は悪魔に味方した。彼らの進むその先に、あの女が蹲っていた。将校は硬直している兵士から石弓を強引に奪い取り、ミレイユに向けて射出した。矢は空しく闇に消え、次の瞬間、兵士の一人が首を撥ねられた。  血飛沫をあげて倒れる部下を呆然と眺めていた将校は、彼女がその首を頭蓋骨ごと貪っていることに気が付き、震える生き残った配下の肩を掴んで城内に走った。崩壊した城門を抜け、館の中に駆け込んだ時には、既に将校を含め三人のみとなっていた。  彼らを城内で出迎えたのは、雄牛の倍はあろうかという大きさの、黒い甲虫であった。ギチギチと六本の足を蠢かせ、それはすぐさま兵士の一人を強力な顎で挟み込み、ずたずたに寸断して血肉を貪った。  甲虫は後から後から、何匹も襲い掛かって来た。これら異形の怪物どもに抗しえぬまま、彼らはただ食い散らかされる他なかった。死にゆく将校が最後に耳にしたのは、どこからともなく響き渡る、悪魔のような女の狂った笑い声だった。  こうして討伐隊は、その経緯を知る者もないままに全滅した。国王はこの事態を重く見て王立軍を続けざまに送り込んだが、それらのいずれもが消息不明となった。最終的に、王国は魔城の存在を無視することにした。時折人里が魔姫に襲われても、山賊の仕業であるとして適当な山狩りを行うに留めた。  そして時は流れ────
/24ページ

最初のコメントを投稿しよう!