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第二話 幻の時
初夏の少し湿った風が噎せ返るような薔薇の香りを孕んで庭園を吹き抜けていく。重たい空気に満ちた城内から抜け出して、オルサーグ王国の若き王女、ミレイユは侍女のメアリを伴い後宮奥の花園に足を踏み入れていた。
今朝降った雨の雫が花びらにも残っていて、それを指ですくい舌先に乗せてみる。心なし甘い風味。世界もこの薔薇園のようであればいいのに、などと益体もないことを考えてみる。
今から数年前、神の代理戦争と呼ばれる大戦が勃発した。発端は異教徒による聖地への侵攻である。これに激怒した教皇は、諸国に呼び掛けて異教徒討伐の連合軍を編成させ、これを撃破せんとした。
険しい山岳地帯にあるこの小王国オルサーグもまた、戦いに巻き込まれていった。人を寄せ付けぬ峻厳なこの一帯は天然の要害とも言えたが、同時に幾つかの山脈を越えれば異教徒のルスマーン帝国領という微妙な位置でもあったのだ。
そしてついに異教徒の強大な軍勢はすぐ近くにまで迫り、これに屈服し恭順するか、あるいは徹底抗戦を貫くか、偏屈で鳴らした王は苦々しい面持ちで重臣らの論争を眺めていた。もし開戦となれば、兄上もまた陣頭指揮を執られるのだろうか。神聖ガロリア帝国は援軍をよこしてくれないのだろうか…………。
不安がよぎる度に棘が胸に突き刺さるような痛みを覚える。居ても立ってもいられぬ気持になると、ミレイユは決まってこの庭園に足を運ぶのだった。限られた者しか出入りを許されぬここは、物思いに耽るのに格好の場所なのである。
「今年も見事に咲いているわ。庭師の腕がいいのね」
面倒ごとを頭から追い払うように、ミレイユは側に控えるメアリに語り掛ける。幼い頃から遊び相手として共に育ち、長じては気心の知れた主従関係を築くに至った同い年の娘。その漆黒の髪が羨ましくて時折そう口にするのだが、彼女はいつも控えめにミレイユの金髪の方が美しいと返すのだ。しかし、返ってきたのは意外な言葉だった。
「────薔薇は、全て枯れているわ」
「…………え?」
聞きなれぬ声を訝しく思ったミレイユが振り向いた次の瞬間、青紫の閃光が走り抜け、大気を劈くような雷鳴が轟いた。空は瞬く間にインクを垂らしたような雲に覆われ黒く濁り、庭園の鮮やかな花々は瞬く間に萎れ地に落ちていく。
世界はたちまちに色彩を失い、芳しき花々の香りは、痩せた大地の乾いた土の臭いに変わっていく。恰も親しく交わりし友が日頃見せていた優しい面を隠し、内に秘めたる恐るべき性を突然に露わにするが如く。ここはすでにミレイユの知る庭園ではなかった。
目前には見知らぬ娘が蹲り、花壇の枯れ落ちた薔薇に手を伸ばしていた。彼女は黒い土くれの中から花びらを拾い、か細い指先でそれを丹念に広げた。
「ここまで荒れ果ててしまうと、ただ寂しい限り────。かつてはこの薔薇も美しく咲き誇っていたものを────」
儚く消えゆくような、しかし妙に耳に沁み入るような声音…………。
「そなたは何者か?」
瞬きの間に現れしこの荒廃せる黒き世界に、なお壮麗なる娘の銀髪の輝き。濃紺の簡素なドレス、胸元には青玉のブローチ。屍の如く白き肌、異国の者と思しき相貌、透き通る青空のような薄い色合いの瞳────。
娘と視線を交えた刹那、ミレイユはその瞳に魂を囚われ、果てのない虚空を落ち続けるような感覚に襲われていた。
「されどこの死せる庭園も────屈強な兵士の骸を苗床とし、うら若き乙女の生き血を与えればあるいは──────」
唄うがごとく囁いた銀髪の娘は、淡紅色の唇を歪ませ両目を細める。その屈折せし微笑を悪魔が愛でしか、折しも冷たい風が通り抜け、娘の銀の如き髪をさらさらとそよがせる。
「ねえ、想像なさって。一体どんな色の薔薇が咲くのかを──────」
彼女が正面から向き合った時、ミレイユは無意識に退いていた。
「あら────怯えなくともよいのですよ?」
「……ぶ、無礼な!!」
「無礼────ですって?」
彼女は怯むどころかうっすらと微笑を浮かべ、ウッフフ、と声を漏らす。ここに及び初めてミレイユは覚る。己がこの娘に、正体不明の歪さに、全てを見透かすようなこの瞳に、恐怖していることを──────。
「殿下、いかがされたのですか?」
「…………え?」
はっと我に帰れば、メアリが心配顔で芝生に座り込むミレイユを窺っている。見れば木漏れ日が午後の花園に優しく差し込み、鳥の囀るのが聞こえ、薔薇の香りが濃厚に漂う様は常と変わらない。メアリの話では、ミレイユは突然気が抜けたようにしばし放心していたのだと。
「さあ、ここは少し冷えますから、あちらに……」
「ひっ…………」
差し伸べられしメアリの手をミレイユは反射的に振り払う。驚くメアリに慌てて詫びながらも、急ぎ立ち上がって自室のある後宮の館へと足早に向かった。背後からメアリが狼狽えた様子で謝罪を繰り返していたが、ミレイユはどんな適切な言葉も返すことができなかった。
今しがた見た幻影の生々しさと、彼女に見つめられた時に感じた、足元が崩れ落ちるような感覚がいつまでもまとわり付き離れることがなかった。
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