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第百九十九話 復讐の舞台から(13)
演目はジルもよく知るものだった。知っているといっても実際に見たことはない。サティエルの持ってきた台本のひとつで、ことさらジルが執拗に練習させられたものだった。たったひとつのシーンのためにおそろしく細かい指導を受けた。この劇場で演じられるということはなかなか格式の高い演目だったのか。受け取った台本の写しは一部分だったので、すべて読みこんだわけではないが、物語の筋はそんなに難解ではない。登場人物たちが精神がどうだの、神がどうだのという場面が多くて、ジルはまったくおもしろいとは思えなかった。
そんなことよりもジルはこの状況がよくわからないことの方が重大だ。ジルをここへ連れてきた男は役者、しかもわりと重要な役柄であるらしく、常に忙しそうに走り回っていた。そんなに忙しいのになぜジルを助けてくれたのか。いったい何が目的なのだろう。クトが何か関係しているのだろうか。考え出すとめまいがしてくる。
仕方なくジルは雑用であるかのように振る舞うことに専念した。だがここにいるべきではないジルを見とがめるような人は誰もいない。役者も裏方も忙しく立ち働いている。やはりこんな立派な劇場に出入りする人々は何か違う。動きはテキパキとしているし、互いに目線だけで合図を送ったりもしている。ジルもこんな場所で雑用、いや、できることなら役者として動きまわってみたい。
クトはというとジルがことの成り行きに唖然としている間にどこかへ消えてしまった。ジルがここに連れてこられたことに気づいたと思うのだが、薄情なものである。どうやら無理やりゲラルドに連れてこられたというわけでもなさそうだ。一瞬見たクトの抜き身の刃のような目を思い出して少しぞっとする。
そういえばゲラルドはどこにいるのか。それにルーサスもどこでどうしているんだろう。
「出番だ」
突然、肩を叩かれる。
振り返ると雑用らしきシャツ姿の女性がジルの髪をさっとなでつけてから、くしゃりと乱す。
「これくらいでいいかな」
それからジルの足先から頭のてっぺんまでさっと視線を走らせると「完璧だ。いいね」と笑顔を見せた。それから誰かに合図を送るように大きく手を振ると、ジルに布の入った籠を持たせて、そっと、しかし有無をいわせぬ強さで舞台へと押し出した。
え? 嘘でしょう?
よろよろと舞台へと進み出てしまったジルは大混乱に陥る。
どうして? 何かの間違い? なぜこんなところに自分が?
舞台は観覧劇よりもさらに明るくなっていて客席の人の顔ははっきりと見えない。しかしあまりにも大勢の人の視線がジルに集まってきているのはわかる。体がしびれるように焦りがかけめぐり、足が浮いているようでおぼつかない。早く舞台袖に戻らなくては。
逃げ出そうとするジルを牽制するかのように、舞台にいた男が大きく足を踏み鳴らした。
「おお、嫌だ! 物乞いだ」
ジルはハッとその役者を振り返った。くしくもその動きは台本通りとなってしまう。舞台の中央に立つ人物はジルをここへと連れてきた男だ。そしてこのセリフよく知っている。ジルが何度も練習させられたあのシーン。それにこの男の演じ方は……。
「神はこのように物乞いのいる世界を許容されている。一体どういうことなのだろうか」
男は大きく手を広げまるで観客に訴えかけるような仕草をする。それから足を踏み鳴らしながら舞台を歩きまわった。
「いや、待て。もしかして神とは悪魔と同じ存在ではないだろうか」
ひっと息をのむような声が観客からあがる。信心深い人にとっては身も凍るような暴言だろう。
「一体誰がどう否定できるだろう。このように不幸な人間とそうでない人間がいる事実を」
しばらくは男が神と悪魔について語る長いモノローグだ。セリフも演技も並々ならぬ技量が求められる。
この人、すごい。
ジルは思わず見入ってしまいそうになる。
モノローグの間、ジルはあまり動いてはいけない。そこにいるだけだといわれればそれだけだが、それでももっともその場面にふさわしい振る舞いがある。確かにそこに汚れた少女がいるという存在感だけは示さなければならないのだ。それはサティエルが教えてくれた。
男が何を言っているのかわからないという困惑、怯えとわずかな期待をない混ぜにしたような表情をつくり、籠をぐっと抱きしめる。難しいことはわからない田舎の娘だ。神とか悪魔とかそんかことよりも、とにかくこの籠の中の織物を売らなければ明日がないということだけは確かだった。どうにかして意味のわからないことをわめいているこの男に織物を買ってもらわなければ。今のジルにとっては、お嬢様や大屋敷のお針子よりもはるかに容易い、現状に近い演技だった。
「さあ、物乞いよ。お前は悪魔を見たか?」
朗々と声を張り、大仰な動きでジルを振り返る男。
やはり。
ジルは確信する。化粧でかなり若く、しかも顔つきまで役に合わせているので、まったく気づかなかった。この演技、間合い、間違いない。
サティエルだ。
「……お願いです」
舞台にふさわしい声量だが、わずかに震えさせてか細さを出す。切羽詰まっているが、悪魔の話をしてくる男にまだ怯えている。
間をあける。
生きなければならない。ぐっとこぶしを固めてから男の方へ、同時に観客の方へと籠を押し出す。
「買ってください」
神も悪魔も、幸も不幸もすべてが幻だ。何もかもを内包したこの世界があるだけ。
男は衝撃を受けたように大きくのけぞった。そしてゆるゆると頭をふると「なんということだ」と頭を抱える。ジルの演技はまもなく終わる。あとは男がこのシーンの最後のセリフを叫べは、場面が変わる。
しかし男はいつまでも頭を抱えている。あの長いモノローグをこなしておいて、最後のセリフを忘れるなんてあり得ない。たった一言だ。なぜいわないのか。ジルの体に冷たい汗が流れはじめた。最後まで気を抜いてはいけないのに、縄が解けるように心が乱れてゆく。
すっとサティエルが顔をあげた。その目には先ほどのクトと同じ光がやどっていた。ジルは思わず後ろへさがる。
「おお、神よ!」
サティエルが声をあげたその瞬間、すっと灯りが消えた。あのまぶしいばかりに灯っていた火がほとんどすべて落ちたのだ。そんなことがありえるだろうか。だが、驚いているのはどうやらジルだけのようだ。客席はわずかに浮ついたような気配が感じられたが、落ち着いている。そういえば台本に「暗転」と書かれていて、意味がよくわからなかったが、この演出のことだったのか。一体どういう仕組みなのだろう。理屈がわからないジルには魔法にしか思えなかった。
さらに舞台の上、舞台裏、客席に風の流れのようなものを感じた。数人が素早く移動しているような気配だ。ハッとする。台本に書かれていたということは、この演目を知る人はここで劇場が暗くなることを知っている。そうであれば、ルーサスが動くとしたら今ではないだろうか。
行かなくては。
ジルは極力音をたてないように注意して、慎重に舞台下に降りた。怪我をするような高さではなかったはずだ。少しずつ目が慣れてくる。ジルは振り返ることもせずに、二階のバルコニー席へと一目散に駆け出した。もう手遅れかもしれないが、ルーサスを止めなくてはならない。悔しいがジルにはあんな仕事は無理だ。子供たちのためにルーサスを連れ帰る必要がある。
思い切り階段を駆けあがり息が切れた。たぶんここが二階席だ。正確な場所はわからないが、シェルマン・ミリルディアがいたと聞いたのは確かこの辺りだったはずだと、薄い闇に目をこらす。ルーサスがいるかもしれない。まだ辺りは暗いままで、さすがに観客たちもどよめいている。
「静かに。動かないで」
不意に背後から腕をつかまれる。子供の手のひらの感触がした。
「心配いらない。もうすぐ終わるから」
なぜかわからないが、知っている子だと思った。はじめて声を聞いたはずなのに。
「――クト?」
その瞬間、さわさわと空気の流れを感じ燃え広がるように劇場内に灯りがともった。
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