第二百七話 客来の予兆(4)

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第二百七話 客来の予兆(4)

「野菜の屑ひとつ無駄にしないうちの母ちゃんみたいな細かけぇ技の使い方しやがるな」  術により遠ざけられた男は忌々し気に悪態をつく。シェイルの方はあの火球に襲われてなお一歩も動いていない。そしてその前にはいつものように困ったような顔をしているリギルがひょろりと立っていた。こんなときでも困った顔をしているのか。いつの間にどこから出てきたのかも見当がつかない。余人が見れば先ほどの炎の矢を放った人物だとは思わないだろう。エリッツもいまだに他に人がいたのではないかと疑いきょろきょろしている。 「リギルは料理も上手ですからね。わたしの目算が正しければあなた……勝てませんよ?」  冗談なのか真面目にいっているのかよくわからないシェイルの言葉に男は凶悪な顔をして舌打ちをする。 「俺もね、それがわかるくらいには優秀なんで困るよ。言っとくけどこの状況での勝率の話をしてるんだぜ。あんたと、そこのかわいい坊やがいなければ五分五分だ。もっというと寝ている人たちが起きてくると勝率ゼロになっちまう。結論、逃げさせてもらうことにする」  そう言っておどけたように両手をあげた。よくしゃべる人だ。 「では、失礼! お菓子はクルナッツの入っていないものにしてくれ」  言い捨てると本当に何の躊躇もなく逃げ出した。背中を見せて堂々と駆けてゆく様子は見ている方が恥ずかしくなってくるような光景だ。いや、いっそすがすがしいのか。エリッツは反射的に後を追おうと駆け出した。 「エリッツ、追ってはいけません」  しかしすぐにシェイルに呼び止められる。 「でも……」  エリッツは遠ざかってゆく男の背中とシェイルを交互に見た。 「いいんです。捕まえたところでどうにもなりませんから」  シェイルはゆっくりと首をふった。 「そうなんですか?」  街中で術を使う異国人を捕まえて、それが何にもならないということがあるだろうか。シェイルの命を狙っていたようだったし、間諜の人たちにも何かしたようだ。間違いなく国同士の問題になる気がするのだが。 「わたしは議会に参加させてもらえなかったので、わからないことが多いのですが、戻ったら殿下から聞いた現時点の状況をお話しします」  また何か問題が起こっているのだろうか。嫌な予感しかしない。  それに異国人のためにお菓子が必要だというのも初耳だった。近々、どこかの国の要人がレジスを訪れるのかもしれない。そうなると確かにお菓子の準備だけして終わるわけがない。むしろお菓子などは最後の方でもいいくらいだ。他にもっと準備するものがあるだろう。  陛下に遊ばれている疑惑がより深まる。真っ先にお菓子を買いに行かせる遊びだけで済めばいいのだが、アルメシエのことを思い出すと、まだまだとんでもないことをされそうな気がしてしまう。エリッツは妙な焦りを感じ始めていた。いきなりシェイルが目の前から消えてしまうような事態は勘弁してほしい。 「リギルがついてくるということは、どうやらあまり安全ではなさそうです。エリッツも後ろの人たちも巻き込んでしまうかもしれないので、早く買い物をして帰りましょう」  あたりを見渡すとすでにリギルの姿はなかった。どこにいるのかもわからないが、そばでシェイルを見守っていることは確かだろう。存在感だけの問題ではないとは思う。ほかのレジスの間諜が倒されている中で唯一残っているのだから、その手の技量も相当あると推測された。しかも術士としても強い。シェイルが微動だにしなかったのは、リギルを信頼しきっていたからだろう。またもやエリッツはうらやましくなる。あの異国人によるとエリッツが動くよりも先にシェイルははじめの攻撃を避けていた。つまりその場所を動いた。つまり、つまり、そういうことだ。  エリッツは悔しくてその場で足踏みをする。 「エリッツ?」  シェイルが心配そうにエリッツの顔をのぞきこむ。そんなことをされると涙が出そうになる。 「なんでも――ないです」  唇をかみしめるエリッツにシェイルはすべて見透かしたような顔で頭をなでてくれる。 「エリッツがそばにいてくれたので心強かったです。あの男もエリッツがいなかったらもう少しねばってきた可能性がありますからね。場数を踏まずに強くなる人はいません。これからですよ」  なんてやさしいんだ。どさくさに紛れてシェイルに抱きつく。もっともっと強くならなくてはならない。またワイダットにいろいろと教わりたい。 「ところでエリッツ、クルナッツはレジスの特産でしたね。あのクルナッツを飴でかためたお菓子……名前は忘れましたが、あれはどこにありますか?」  エリッツはシェイルの顔を見あげる。いたって真面目な顔をしていた。先ほど逃げて行った男はクルナッツの入っていない菓子にして欲しいとわざわざ言い置いていったが、あえてそこを選ぶのか。 「クルヴァルですね。確かにレジス人なら誰でも知ってるお菓子ですけど」  食べ物にさして興味のないエリッツでも知っている。レジスでお菓子といったらクルヴァルは必ず名前があがる。一般庶民が親しむクルナッツを飴でかためただけのものから、真っ白に精製した砂糖を黄金になるまで煮詰めて使用し、きれいな形に成形するという手間のかかった高級品まである。そういう高級品を選べば王室御用達ということになっても格好がつくだろう。 「あえてのクルヴァルですか?」 「はい。何かあの人、気にくわないので」  シェイルはややそういうところがある。普段は他人にもやさしいのに、気にくわないと、とことん子供っぽい反撃をしようとする。しかしエリッツも正直あの男のことは好きになれそうにない。役立たず呼ばわりされてすごく傷ついた。 「性格が悪そうだったので、クルナッツが食べたくてああいったことを言ってきた可能性はありませんか」  エリッツの言葉を受けてシェイルは顎に手をやり、目を閉じて考えこみはじめる。シェイルが目を閉じているのでエリッツはちょっといやらしいことをしたくなった。しかしリギルが見張っているかもしれないのでやめておく。 「確かにそういうこともありそうですね。クルナッツはクセもなくて食べやすい木の実ですからあえて嫌うような要素はないように思います」  目を開いたシェイルはいつになく真剣な顔をしている。 「いえ、本当に苦手なんだと思いますよ。先ほどクルヴァルの店の前でわずかに視線をそらしましたから。あれは少し不自然でした」  いつの間にかリギルが輪に入ってきている。どこから出てきたんだ。そしてなぜそんなことを観察しているのか。エリッツが思っている以上にリギルは間諜として優秀なのかもしれない。 「――その店で買いましょう」  シェイルは重々しく頷いた。  その後、リギルに店を教えてもらい試食を経て、何種類かのクルヴァルを買いつけた。レジス王室御用達としてもふさわしい高級店で、店頭に並べられた金色に光るクルヴァルは神々しさすら感じた。甘い飴と香ばしいナッツの香りが漂う温かな店で、店主の人柄もよい。あの男のことがなかったとしてもこの選択は大正解なのではないか。  しかしながらこの時点で確定ではなく提案として陛下に提出するだけだそうだ。シェイルによればどうせ言いがかりをつけられることになるようなので、到底決まったとはいいがたい。以前の下賜品事件のような問題が起こらないように、シェイルはあたかも複数の候補のうちのひとつとであるかのようなニュアンスで店主に説明をしていた。それでも誇らしげな表情を見せつつ恐縮し通している。これだけすごいお菓子を作りながら驕らない姿勢は尊敬する。このお店に決まればいいのだが。 「殿下のお菓子もこれにしましょう」  シェイルも気に入った様子で例のお小遣いの袋をあけている。 「わたし達の分も買いましょうか。戻ったらお茶にしますから」  言いながら高級菓子をぽんぽんと注文している。さっき大事に使うと言っていたお小遣いはもう底を尽きたのではないかとエリッツは少し心配になった。
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