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第二百十二話 客来の予兆(9)
「うん、あれはちょっと失敗だったよ」
オズバル・カウラニーはお茶のカップを手にしたまま少しだけ気落ちしたように視線を落とした。
午前中に必要な仕事だけを終わらせたエリッツたちは、すぐにカウラニー家へと出向いた。城周辺でよく庭いじりをしているようなので、呼んだら来てくれそうなものだが、さすがに失礼に当たるだろう。それに話が話なので城から出た方が相談しやすいというのもある。
またもや煩雑な手続きを経て、エリッツたちは忙しなく街に出た。
庭を外から盗み見たことはあるが、カウラニー家の屋敷に入ったのは初めてだ。以前外から見た貫禄のある使用人が出迎えてくれる。前に見たときはこの人が屋敷の当主だろうと思い込んでいたものだ。その人がシェイルを見て一瞬だけ顔をしかめたのに気づいてしまった。しかしすぐに真面目な顔になり「ようこそいらっしゃいました」と中へ通してくれる。長期休暇であってもカウラニー家に行きにくいというシェイルの話を思い出す。書類上はシェイルもここの家族のはずだが、飽くまで書類上だけなのだろう。あまりにもよそよそしい。だが思い返せばエリッツも実家では似たような状態だった。
広い廊下を長々と歩き、たくさんの植物が飾られた応接に通される。応接だけでなく廊下や階段にも緑がいっぱいあったし、木々の茂った広々とした中庭があり、廊下の窓は庭がよく見えるように大きくとってあった。森を内包したような屋敷はオズバルの人柄があらわれている。
シェイルが屋敷に来るのはめずらしいことらしく、オズバルは大歓迎という様子で、少しはしゃいだように二人の待つ応接に入ってくる。そういえば初めて会ったときもシェイルが全然屋敷に来てくれないというようなことをいっていた気がする。
エリッツもオズバルと話すのは久しぶりでうれしくなってしまった。あのときはアルヴィンも一緒だったとしみじみと思い出す。
ひとしきり気候のことや近況を話したあと、シェイルはおもむろにヤギの話を切り出した。シュクロの件は急ぎといいつつ、ヤギが先なのか。それともこれも世間話の一環として話しているのだろうか。
「失敗――というと?」
シェイルは興味深そうに問い返す。
「ヤギがやわらかい木の芽まで食べてしまうのは計算外だった。城の庭師たちに叱られてしまったよ」
オズバルはしょんぼりと肩を落とした。もとは偉い軍人だったはずだが、相変わらずそれっぽくない。
「しかしヤギたちはまだいましたよ」
オズバルは額を揉むようにしてうなった。
「あのヤギたちは知り合いの農家に貸してくれるように頼んだんだが、一匹ではさみしがるからと二匹、つがいで連れて来た。その時はまあいいだろうと思っていたんだがな。春先に子ヤギが生まれてしまって、ちょうどそのタイミングで木の芽を食べてしまうことも発覚してしまった。おかげで大変だったよ」
どういうことだろうと、エリッツは首をひねる。子ヤギが生まれたことと、木の芽を食べてしまうことが分かったことの何が関係あるのか。シェイルの方を見ると「なるほど」と言ってほほ笑んでいる。またエリッツだけ気づけないパターンか。
「子ヤギにあんなに支持者がついてしまっては追い出せませんね」
そんなに難しい話でもなかった。エリッツはほっとしてお茶のカップに口をつける。確かに通りがかる人はみんな子ヤギに熱い視線を送っていた。農家に返すと聞いて大反対したのだろう。おかげでエリッツも子ヤギを見ることができたので、それはよかった。
「今は木の芽もないですし、夏草もしげっていますから問題なさそうですが。この季節だけ農家からお借りすればいいのではないでしょうか」
「その手もあるがなぁ」
オズバルは煮え切らない様子だ。
「子ヤギが生まれた話をしたら、農家の方が母ヤギからミルクがとれるから他のヤギと交換してほしいと言ってきてな。私としては問題ないわけだが、この段になって急に城の若い庭師たちと子ヤギの支持者たちが『母ヤギと子ヤギを返さないでほしい』と。まぁ、いろいろともめたわけだ」
オズバルは大きくため息をついた。木の芽の件で文句をいっていた庭師たちも子ヤギのかわいさに負けてしまったわけか。ヤギをめぐる実験は周辺事情を含めて大変なことになっていたようだ。
「それでどうしたんですか?」
エリッツの問いにオズバルはおどけたように両手をあげて天井を見上げた。
「私が母ヤギの乳を絞って、人に頼んで市場に持って行ってもらい、その売り上げを支払うという約束で手を打ってもらった。本当はヤギの親子を返して欲しそうだったが」
めちゃくちゃ面倒くさいことになっている。
「それは大変でしたね。全然知りませんでした」
シェイルも目を丸くしていた。
「まぁ、お前はどうせ、子ヤギの肉がやわらかそうだとか、そういうことしか考えなかっただろうがなぁ。正直、お前が見つけたら食ってしまうんじゃないかと少し心配していた。念のためいっておくが借りているだけだから食うんじゃないぞ」
オズバルは真面目な顔でシェイルを見る。冗談なのかどうか判断がつかない。エリッツも思わずシェイルを見る。
「え。食べませんよ。そんな、城の動物を勝手に狩ったり、そんな真似は……」
なぜかシェイルは少し動揺したような声をあげる。狩りはしないだろうが、おいしそうだとは思ったのかもしれない。もしかしてその点で興味を持って話を聞きに来たのだろうか。
「そういえばヤギはロイにいっぱいいたなぁ。よくみんなで狩って食べたものだ。しっかりとスパイスとハーブを仕込んで焼けば臭みも消える。さらにそれを煮込み料理に使えばなお食べやすくなった。レシピを教えてもらって何度か作ったが覚えているか? 若いメスのヤギは特にうまかったな。この辺ではあまり手に入らないから気になるのも無理はない」
オズバルは一人でうんうんと頷いている。
シェイルはちらりとエリッツの方を見た。エリッツは聞かなかったことにしようと、シェイルの視線を避けて無意味にお茶を口にする。この部屋には大きな窓があって魅力的な中庭がよく見えた。庭を見ているふりをしてやり過ごそう。
シェイルはエリッツと違って、食べ物がなくて死ぬ思いもしてきたのだ。愛玩用でもない動物を「かわいい、かわいい」と愛でているのが、ちょっと恥ずかしくなる。
「――それはそうと、ルグイラの件で来たんだろう?」
「そうです」
いつになくシェイルが話題の変更に前のめりになった。別にエリッツはシェイルが子ヤギを食べたくても文句をいうつもりはないのだけど。
「いやぁ、わからないなぁ」
かいつまんでこれまでの経緯を説明したが、オズバルは何度も首を傾げていた。
「ルグイラの件はこちらにも問い合わせがあったのである程度は聞いているが、その、シュクロ? という人物にはちょっと心当たりがない。なぜうちの名を出すのだろうな。くだんの使者とやらも接点が思いつかない人物だ。私がルグイラにいたのはもうだいぶ前の話だから、見知った連中がまだ健在なのかもわからん」
確かに当時からはだいぶ入れかわりがあるだろう。
「わたしを処分したら手柄になるようなことも言っていました」
「それは――、まあ、そうだろうな」
オズバルは当たり前だというような口調だ。
「何十年も前の話だが、もともとルグイラには我々がいうところの術士の能力を持った者がレジスよりも多く存在した。ディガレイをめぐっての条約の際はどちらかというとルグイラが主導していたからな。知っているとは思うが術士の数はそのまま軍事力に直結する」
「条約?」
そういえば殿下たちと話していたときもディガレイという国の名が出ていた。
「ああ、レジスとルグイラはお互いディガレイには攻め入らないという約束をしているんだよ。そして他国がディガレイに攻め入った際は協力してそれを排除する、とね」
そういえば地理的に恵まれているディガレイを欲しがっている国はたくさんあると聞いた。抜け駆けはなしとあらかじめ条約を結んでいたのか。そういえばその話は早試に出たような気もしなくもない。
「表向きあまり取り沙汰にはされないが、今はロイを多く抱えたレジスが術士の数を大きく逆転させているんだ。ルグイラにとってレジスにとどまるロイの難民は目障りでしかない。一人でも多く潰したいことだろう」
エリッツはなるほどと手を打ったが、シェイルは依然として不思議そうだ。
「わたしは術士ではないのですが」
「わからなかったんだろう。かの国の状況を鑑みるに、目についたロイは殺しておくのが得策と考えても不思議ではない。ヤツの場合は最初から殺すところまでするつもりはなかったと思うがな。そこまでしたら警備の厳重なレジスの牢の中で安泰とはいかず、処刑される可能性も出てくる」
そこまで言ってからオズバルは「ああ」と、何かを思いついたかのように声をあげた。
「そうか。カウラニー家の名を出すということは、もしかして知り合いなのかもしれないな」
シェイルとエリッツは顔を見合わせる。さっき知らないと言っていなかったか。
「だとしたら本当にお前の命を狙った可能性もなくもない」
そういって複雑な表情をした。ますますわからない。
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