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第六十二話 中庭
「今の、ナターシャ?」
すぐさま人の波にまぎれてしまったがあの目の下の目立つほくろと無表情は忘れようもない。普通の侍女らしい白のエプロン姿でちょっと市場に買い出しに行くというような出で立ちだった。そのまま城内に入っていったように見えたが気のせいだろうか。
しかしナターシャがいるということはマリルが戻っているということだ。それは別に不思議ではないがなぜナターシャなのか。
「知り合いでもいましたか。もう降りますよ」
「あ、はい」
馬車の窓に張りついているエリッツにアイザックは不思議そうな視線をむける。やはりただの上品な老紳士にしか見えない。
「わぁ、すごい」
通された庭園は思わず月並みな歓声をあげてしまうほど見事であった。主役の薔薇はいたるところに咲き乱れ、噴水のレンガやアーチにもつる薔薇がはわせてある。
しかし会場の場所はエリッツが思っていたところとはまったく違っていた。てっきり王城のそばで、シェイルが持っていた図を見た限り建物に接しているのだと思ったが、接しているどころではない。囲まれていた。庭を囲む建物は低く日当たりには問題がないが散策するための庭園というよりは、建物の窓から眺めるために作られているようにも思う。
「ここは議会回廊の中央庭園ではないか」
「やはり客人が客人だけに奥には通せないんだろう」
「しかしここの薔薇も文句のつけようもなく見事じゃないか」
「中央庭園に入るのは初めてだわ。きれいね」
例年とは会場が違っているらしく、常連らしい参加者の何名かはあたりを見回してざわざわと波立っている。おおむね普段は入ることのない場所に招き入れられ悪くない印象を抱いているようだ。
あれからまたいろいろ変更があったのだろう。
しかし会場ごと変えるなんてシェイルはちゃんと寝れているのだろうか。書記官として手伝えなかったことが悔やまれる。やはり何があっても戻るべきだったのではないか。
「議会回廊の中庭とはまた……」
アイザックは虚をつかれたような顔をしている。庭に出るまで建物の中を通ったが同じような扉が等間隔で並んでいる不思議な建物だった。部屋の中は応接か会議室だろうか。
庭園の中をぐるりとめぐりテーブルに案内された。テーブルもつみとられた薔薇で飾られている。セットされている銀食器や皿などは高級品のようだったが、あまりごてごてとした印象がなく品がいい。屋外での会食にふさわしくテーブルには新緑のような緑のクロスがかけられていて春らしさに思わず浮かれてしまいそうになる。
護衛で付き添っているだけにもかかわらずエリッツも席をすすめられた。この式典に参加するには国王陛下の招待が必要と聞いていたが、いいのだろうかとわずかに逡巡したものの席が準備してあるのだから固辞するのも不自然だ。
それでも「場違いなやつがいる」と周りが見ているのではないかと気になってしまう。ここにいるのは陛下に功績を認められた立派な人々ばかりと聞いたがエリッツは何ひとつ褒められるようなことはしていない。肩身がせまいどころか後ろめたい。
立派な人々は立派な人々同士で顔見知りだったりするようであちらこちらであいさつを交わしている声があがっている。何人かがアイザックのもとへもやってくるが、当然のことながらエリッツのことを知っている人はいない。時おり「おや?」というように視線をむけられることがあるくらいだ。
招待客たちはみな美しく着飾りこの式典を楽しもうとしている。テーブルに飾られた露が彩る薔薇を見ているとこのまま何も起こらないのではないかと思えてしまう。
「アイザックさん、きれいな庭ですね」
エリッツもこの美しい眺めをとりあえず楽しもうと辺りを見渡した。中庭とはいえ十分すぎる広さがあり、暑いほどの陽気の中まだ冷たさの残るささやかな風が心地よい。薔薇と土の香り、準備しているのであろう食事の匂いもただよっている。
ふと、アイザックが無言でいることが気になり隣を見ると厳しい表情で前方をみすえている。
「アイザックさん?」
前方にはいくつかの天幕がはってあり、今は無人だがひときわ大きな天幕には美しい敷物と椅子が据えられていた。きっと国王陛下の席だろう。
その周りの天幕には薄布がかけられているが人影が見えないので賓客はまだ来ていないようだ。
「あ、いや、噂では帝国の使者や北の王が参加されると聞いたので。結構噂好きなんですよ」
取り繕うようにアイザック・デルゴヴァはエリッツにほほえみかける。
突然、周囲の空気がざわりとゆらめいた。
「あれが……」
「本物なのか」
「いや、実在するとは」
押し殺した周囲の声につられて前方を見るとどうやら賓客の一人があらわれたようだった。エリッツは危うく声をあげそうになる。
袖に金糸と銀糸で荘厳な刺繍をほどこした黒衣である。
「あれは、ロイの……」
アルヴィンの服と同じような形だ。長い袖で両手は隠されているが長身でしっかりとした体型のためアルヴィンのような子供っぽさは感じられない。長い黒髪は不思議な形に結い上げられ銀細工に青い玉の入った飾りでとめられていた。
顔は白磁のような素材の仮面で隠されている。仮面で冷たい印象を受けるがわずかに見える肌は健康的な赤みがさした白色である。
あれが北の王。
エリッツは先日のことを思い出す。威厳がありやさしい亡国の王族。話をする機会はあるだろうか。勝手に部屋にお邪魔したお詫びと薬を飲ませてもらったお礼をしたい。しかしあんな高座の人物と言葉を交わすのは難しそうだ。
隣で案内をしているのはラヴォート殿下、そしてその一歩後ろに控えているのが、久々にみる師の姿であった。王子の側近らしく控えめだが式典にふさわしく着飾っている。銀に輝くボタンが優美につらなる黒い長衣だ。異国風の面立ちと黒髪によく似合っている。外面だけはおそろしくよく、今も笑顔を絶やさないラヴォート殿下も目の覚めるような青い長衣であった。ともあれシェイルは思ったほど疲労感の残った顔をしていないので安心する。早くこれまであったいろんな話をしたい。あの指でなでてほしい。
エリッツは無意識に立ち上がっていた。
「仕事中にどちらにおいでですか、お坊ちゃん」
駆けだしそうになるエリッツの首ねっこを引っ張ったのは具合が悪いといっていたはずのリークだ。服が首の傷に食いこみほとんど悲鳴のような声をあげているエリッツのことを無視してリークはアイザックに向きなおる。
「アイザック様、遅くなって申し訳ありません」
「あ、ああ、きみか」
やはりアイザックはどこか上の空でちらりとリークに目線を向けただけで前方を見据えている。北の王を見ているのか。暗殺するつもりだとアルヴィンはいっていたがいったいどうやったら近づけるのか想像もできない。多くの人が見ているし、おそらく建物の中にも警備兵が大勢控えていることだろう。
そう考えるとこの場所は警備のしやすさでいうとこの上ない会場である。外部からの侵入も外部への脱出も難しい。
エリッツはそっとリークを盗み見る。昨夜のことなどなかったかのように普通だ。しかし、なぜか前髪だけがしっとりと濡れている。
「リーク、髪が濡れてる」
エリッツは思わずリークの前髪に触れた。
「坊ちゃん、俺にはおかまいなく!」
思い切りその手をはたかれる。雇い主の手前言葉遣いだけは丁寧だがエリッツに対する態度に変更はない。昨日のあれは熱に浮かされて見た夢だったのか。
「坊ちゃんはやめてよ」
リークは鼻で笑うように息をもらしただけでアイザックの背後に姿勢よく立つ。前方を見ているその目がまた紅玉のように光を帯びたように感じて背中にぞくりと冷たくなった。
帝国からの客人だ。
また招待客の間がざわめく。先ほどよりも緊張を帯びたざわめきだ。いわば敵国、前の戦でつらい思いをした人も多いはずだ。
客人は三人、初老の男性と壮年の男女だった。当たり前だがごく普通の人間だ。帝国の人というだけでとんでもなくおそろしい怪人が来るような気がしていた自分をそっと恥じる。しかし敵地にのりこんでくるだけあってその眼光は鋭い。
三人は招待客たちの視線をあびながらも何でもないことのように案内された天幕の中に消えた。その様子から初老の男性が三人の中で一番偉いようだ。壮年の男女が付き従うように後ろに控えていた。
そしてこちらにも新たな客人が姿をあらわした。
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