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第七十四話 駆ける
思っていた通りカルトルーダの暴れ方は尋常ではなかった。背のエリッツを振り落とそうと狂ったように嘶き、後肢を高くあげたり、立ち上がったりと怪我を負い体中が痛む中これはきつい。エリッツは必死に手綱を握り両足に力を入れて馬体にしがみつく。
だが確かにシェイルが言う通り力を加減しているようにも感じられる。軽々しく乗って欲しくはないが大怪我をさせるつもりはない。
やさしい……のか?
「カルトルーダ、みんなのところに一緒に行こう」
エリッツはその首筋を叩く。だがカルトルーダは高く嘶き、唐突に明後日の方向に猛スピードで駆け出した。
そっちではない。
慌てて手綱を引こうとして手を止めた。とりあえず暴れるのをやめてくれたのだから少し走らせよう。気が晴れるかもしれない。
「いいぞ」
エリッツはまた首筋をやさしく叩いてやる。惚れ惚れするような走りっぷりだ。兄の愛馬だけあってかなりいい。馬体が大きいのにかなりのスピードが出るうえ、背が安定している。筋肉の動きが流れるようにしなやかで毛並みも美しい。ただ、これから戦場に向かおうというのに疲れたりしないだろうか。少し心配だ。そしてそろそろ方向転換をしないとこのスピードで離れていくと戻れなくなる。
「カルトルーダ!」
名を呼ぶとわずかに筋肉の動きが変わる。また暴れ出すかと、エリッツは身をかたくする。次の瞬間思わず歓声をあげた。
「跳んだ! すごい」
素晴らしいジャンプ力だ。もしかしたら油断しているエリッツを振り落とそうとしたのかもしれないが、暴れだすかと身構えていたため何ということはない。
「すごいな」
エリッツはまたそのたくましい首筋を叩いてやる。すると調子をとるような不思議なステップを踏み、先ほどよりもさらに大きくジャンプする。
「高い!」
カルトルーダの筋肉全体がリズミカルに躍動しているのを感じる。尾もあがってきた。
「すごい、すごいな、カルトルーダ」
カルトルーダは満足したようにゆったりとスピードを落とす。
「機嫌が直ってきたのかな」
ためしにエリッツは軽く手綱をひらき体重を傾けてみる。すると案外すんなりと方向を変えてくれた。
「ありがとう」
ほっとしてその首筋にすがりつきたいほどの気分だったが、軽く叩いてやるにとどめる。すぐ追いつけるだろうか。エリッツは足に軽く力を入れる。カルトルーダの反応は早く、それこそ流星のように来た道を戻り始めた。
「遅い。何を遊んでいたんだ」
ようやく追いついたと思ったらさっそくダフィットが近づいてくる。エリッツが出遅れたので、みなスピードを落として待っていてくれたようだ。
「こいつ、すごい跳ぶんですよ」
エリッツが興奮気味に報告すると、レジスの若い兵もエリッツの隣に馬を寄せる。
「グーデンバルド将軍もよくそうやって跳ばせて遊んでますよ。しかしよく乗りましたね。実はダメだと思ってたんですけど。さすが弟」と、にやにやとする。なぜだろう、あまりうれしくはない。だが、カルトルーダはジャンプを褒められたことでジェルガスを思い出し、機嫌をよくしたのかもしれない。案外かわいいところがある。
前方には土煙があがる戦場が見える。何だか焦げ臭いのはロイの町内会が解放炎式というのを使っているからだろうか。よく見ると確かにあちこちで火の手がチラチラと瞬いている。
先頭にいるシェイルが片手をあげた。レジスの二人の術兵はすばやく黒い覆面で顔を覆う。そして互いに拳を軽く合わせた後、左右に分かれて先頭に出た。その後ろにアルヴィンがつく。乗馬は苦手だと言っていただけあり、どうも動きが危なっかしい。落ちなければいいが。
そしてダフィットともう一人のロイの兵が北の王を守るように左右についた。
「え? おれは?」
エリッツはきょろきょろと辺りを見渡す。すかさずダフィットが怒鳴る。
「だから! そういう顔をするな。堂々としろ。将軍が砦の方に向かっている今この戦場で一番偉いのはお前だ」
初耳の設定だ。
「――で、どこにいたらいいんでしょう」
立ち位置すらわからない。
「自分で考えろ」
戸惑っていると、もうひとりいるロイの兵がこっそりと北の王の横を指さしにやりと笑った。エリッツは「なるほど」とひとつうなずくと、北の王の隣にカルトルーダをつける。エリッツを確認すると、シェイルがまた片手をあげ何か声をあげた。
これは、たぶんロイの言葉だ。
エリッツはなぜか心臓をぎゅっとつかまれるような苦しさをおぼえた。シェイルが知らない存在のように遠く感じる。
北の王はあげたその手をさっと前方の戦場に向ける。全員のスピードが一気にあがった。
みるみる戦場が近づいてくる。剣や槍のぶつかり合う金属音、怒号に低いうめき声、血と汗と乾いた土のにおい。戦う人々の様子まで鮮明に見えてくる。血にまみれすでに動かない兵の上でさらに斬りあう兵士たち、うめき声をあげる兵にとどめを刺している者たちもいる。
これが戦場か。
だが初めての戦場に戸惑っている場合ではない。この戦場で一番偉い人を演じなければならないのだ。何度もこのような戦場をくぐり抜けたんだと自分にいい聞かせる。エリッツはぎゅっと目に力を入れて唇をかみしめた。カルトルーダは落ち着いた様子で北の王の馬のすぐ横にぴたりとつけ勇ましく駆けている。エリッツよりもよっぽどその役割を演じてくれていた。もともと「将軍の馬」なのだから当たり前といえば当たり前か。逆にエリッツが動揺すればカルトルーダはまた振り落とそうとするかもしれない。
目の前は両軍の境界が曖昧で歩兵たちが斬り合っている状況だ。元の陣形がどうだったのかもうわかりようもない。騎兵の姿が見えないし、術兵もエリッツにはわからない。戦場の範囲はだいぶ広いようだ。これは確かに早く立てなおさないといけない。帝国の騎兵はすでにここを抜け、マルロの砦へ攻め入っているのだろう。
そこへエリッツたちは勢いよくつっこんでいく。歩兵たちの驚愕したような顔が次々と通り過ぎていった。エリッツたち目がけ、切りかかろうとしたり、弓を射かけようとする帝国兵たちもいたが、そのすべての攻撃は届くことなく見えない何かにはね飛ばされていく。おそらく前を行くレジスの術兵たちによる術だろう。アルヴィンのいうところの風式なのだろうが、どこからどう作用しているのかよくわからない。
どこからか高い風の音がする。遠い異国に強く吹きつける風のような高音。
アルヴィンが笛を吹いていた。あの小さい笛から出る音にしては不自然なほどに大きな音だ。戦場のあらゆる音を圧倒する音量で鳴り響いている。もしかしてこれも何らかの術を使っているのかもしれない。単調だがとても不思議なメロディだ。
いた。
次々にこちらに目を向ける黒髪の人々。エリッツは驚いた。町内会とは聞いていたがかなりの軽装で戦場に立っている。しかも老人や子供といってもさしつかえない歳の人々ばかり。そういえば、アルヴィンはロイの保護区の人々は大人になればほとんどがレジス軍に従軍するというようなことを言っていなかったか。つまり町内会の実態は軍に所属していない老人と、従軍直前の若い人たちということになる。
なぜここまで無事だったのか。動揺を顔に出さないようこらえながら、辺りを見渡す。
ふと、北の王が馬をとめた。ゆったりとした動作で戦場を見渡すと、長剣を抜き天に向け、やはりロイの言葉で何かを叫ぶ。
瞬間、怒涛のようにロイの人々が沸きたち、我先にとこちらに駆け寄ってくる。
中にはその場でひれ伏す者、肩を抱き合い涙を流す者たちもいた。みな神様でも拝むような視線を北の王に向けている。
何が起こっているのか。内心の動揺を抑えつつエリッツは戦場を睥睨する、くらいしかできることがない。ただそこにいればいいと言われたが、これで本当に大丈夫なのか。できるだけ堂々とした態度を心がけて北の王を見やる。
北の王もエリッツの方を見ていた。白磁の仮面から出ている口元が笑みの形をつくっている。北の王がさっと手のひらをさし出す。エリッツは緊張を隠しつつその手をしっかりと握った。
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