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彰人はふうっ、と息を吐いた。
「参考書も手に入ったことだし、そろそろばしっと決めてよね」
「そうだな、よく読んでみるよ」
「ほんと、頼むよ。俺結構心配してんだからね。父さんもだけど、母さんのことも」
「ああ、わかってるよ。ありがとうな」
俺と香織は籍を入れていない。昔、彰人を幼稚園に預けるタイミングで結婚を申し入れ、あっさりと却下されたままだ。お互い名字が同じだったこともあり、特に大きな不便もなく今日まで生活出来てしまったのである。それでも、俺はずっと籍を入れたいと思っていた。
子はいつか巣立つ。来年の今頃には、彰人は就活をしているか、すでにどこかから内定をもらっていてもおかしくない。もし彰人が仕事のためにこの家を出ていってしまったら、「彰人を育てる会」の俺たちは事実上解散である。
「しかし、プロポーズって本当に色んな演出があるな。バラって贈る本数で意味が違うのか」
「それ、俺も知らなかった。バラはとにかく100本だと思ってた」
「100本って。実際買ったらいくらするんだろうな……」
「大丈夫だよ、母さんカスミソウ派だから」
「カスミソウ100本か?」
「すげー引っ掛かりそうだね」
記事に目を落としながら、俺たちはエピソードを好き勝手にいじっては笑った。
彰人が巣立ってしまったら、というのは言い訳で、俺はずっと香織のことを好ましいと思っている。俺になど想像もつかない決意で彰人を産んだ母で、日々俺の不摂生を叱り飛ばし、彰人がいないときは俺を一静「さん」と呼ぶ女性に、俺は二十年前のまま恋をしている。
――恋、だなんて。いい年したおっさんが。
もしもっと若い時に、別の出会い方をしていたら、それこそ100本のバラを抱えて、100万円のダイヤモンドを捧げて、100万ドルの夜景よりも君が綺麗だなんてかっこつけながら、結婚を申し込んでみたかった。
まあ、別の出会い方だったら俺など相手にされていなかったとは思うが。
彰人がふと、記事の端に目を留めて顔をしかめた。
「『結婚したいと積極的に口にしたらプロポーズしてくれました』って……これ、素直に読んでいいやつ? ちょっと怖くない?」
「西村くんの彼女みたいな人なんだろう」
「あいつ大丈夫かな」
女の人って怖いな、と記事に夢中になっていたのは失敗だった。
玄関のドアが開いたことに、俺たちは二人とも気が付かなかった。
「ただいま。お父さんも彰人も、今日はうちでご飯でいいの」
「うぉわあぁっ」
俺も思わず声が出た。彰人が文字通り飛び上がり、その勢いで雑誌をとじる。
慌てて顔を上げると、彰人の後ろに不審そうな顔をした香織が立っていた。
「びっくりした、何よ二人とも、大声で」
雑誌はとじられたが、こんな大きいものを今から隠すのは不可能。彰人は完全に慌てていていかにも怪しい。俺もさっき声を出して驚いてしまったので人のことは言えないが、彰人の場合素直さが裏目に出て、一目で隠したいことがあるのがわかってしまう。
「お、お帰り、母さん」
お手本のようなしどろもどろである。
彰人と香織の弱点は嘘が下手なことと、勢いとスピードで畳みかけられると意外に弱いこと。今こそ最速でうなれ、俺の脳。
「……彰人、何やってるんだ」
俺は雑誌の厚さを利用して鍋敷きにしようとした、という筋書きをひねり出し、一応、その塲を切り抜け、穏便に食卓を囲んだ。
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