カスミソウと俺

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 よく考えたら、いや、よく考えなくても、正直に西村くんに押し付けられたと言えばよかったのだ。夜、自室で机に向かいながら、そのことにようやく気が付いた。俺もずいぶん動揺していたらしい。 俺の阿呆、と後悔していると、かちゃり、とドアノブがゆっくり下りる音がして、細くドアが開いた。 「お父さん、起きてる? 今いい?」  お父さん、と言ったのは、向かいの部屋にいる彰人がまだ起きているかもしれないと思ったからだろう。 「起きてるよ。どうぞ、入って」  返事をすると、ドアの隙間から香織が素早く滑り込んできた。裾をネイビーで縁取ったアイボリーの寝間着に、家用の眼鏡をかけた、いつも通りの香織の就寝前ルックだ。ただ、その胸にはクリアファイルが一枚抱えられている。 「どうしたんだ、遅くに」 「ちょっと座っても?」 「いいよ。悪いな、散らかってて」  香織はファイルを抱えたまま、ベッドのふちに腰かけた。 「で、何なのよ? あの鍋敷きは」 「あ、やっぱりそれか」 「当り前じゃない、二人してもう」 「ごめんごめん」  俺はキャスター付きの椅子をくるりと回し、座るなり不満な顔をした香織に向き合う。 「元々彰人でも俺のでもないんだ。西村くんが彼女に渡されたものらしくてな」 「西村くん?」 「彼女さんは西村くんが卒業したらすぐしたいらしいんだ。ああいうのに載ってるような、式にも憧れがあるらしくて、西村くんにも読むように言ったんだって。だけど結局、処分に困って彰人に押し付けてきたらしい」 「はぁ……ずいぶん前のめりな彼女さんね」  香織が俺と同じ感想を漏らしたので、思わず笑ってしまう。 「俺もそう思う。で、彰人は彰人で、面白そうだからって持って帰ってきたんだ」  どこまで正直に言ってしまうか迷いながら、俺は言葉を続ける。 「香織が帰ってくる前に、ちょうどプロポーズのエピソードを集めた記事を読んでたんだが、まあ、これが結構、女性って怖いな、と思う所もあって……その途中で女性が入ってきたもんだから、ちょっと焦っちゃたんだよ。悪かったな、驚かせて」 「ふーん……」  まだちょっと納得いかないような顔で、香織は腕を組む。控えめなふくらみが、その腕に乗る。 「まあ、驚いたけど、それにしても彰人は焦りすぎだし、一静さんも動揺しすぎよ。それならそうと言えばよかったのに」 「俺は彰人につられたんだ」 「それはわからなくはないわね」  ふふ、と笑い、香織は俺の足元へ目線を落とした。 「――今日、木津川先生の所に行ってきたんだけど」  俺が自然と背筋を伸ばすと、香織はまた「ふふ」と笑った。 「例の本ね、特に問題もないみたいだから、このまま今月中には刷り終わって書店へ卸すと思う。あなたには謹呈してくださるって」 「そうか。先生の体調はどうだった?」 「相変わらず入院はしてるけど、まあ元気よ。ヘルパーさんのおかげで入院生活もそんなに不自由してないみたい」  木津川敏雄名誉教授は、俺の学問の師であり、生涯の師である。  大学、大学院で俺に思想史の何たるかをたたき込み、根暗でふさぎこみがちだった俺を研究の世界へと導いてくれた大恩人だ。俺が研究所や大学で勤めるようになってからも、変わらず導き続けてくれた。数年前からは病気がちになり、入退院を繰り返している。  香織は「あ、そうそう」と続けた。 「谷井先生が講演されたときの写真を渡したら、『あいつまだ生きとったんか』って嫌な顔してたわ」 「だろうな」  香織のモノマネに笑いながら、俺は2人が公私ともにライバルであったことを思い出す。 「あとそれから、この間一静さんと彰人がスーツ買った時の写真も見せたんだけど」 「スーツ買った時?」 「ほら、2人がスーツ交換して試着した時よ」 「ああ。写真撮ってたのか」 「たまたまね。先生、親子っていうより兄弟みたいだなって言ってたわよ」 「最近は確かにそんな感じかもしれないな……」 「最近仲ほんとに仲がいいわね」  仲がいい、というか、むしろ俺が「弟」側ではないかと思うことすらある。きっかけは、俺が香織と結婚したいと彼に伝えてしまったことと、 「やっぱり、俺が実の父親じゃないって伝えてから、だろうな。変わらず父として見てはくれてるけど、少しだけ、気の知れた親戚のおじさんみたいな感じでも接してくれるようになった気がするな」  香織が一つ頷く。 「彰人がまたバスケ始めたのも、一静さんが何か言ったんでしょ」 「まあ、そうだな。体が動くうちに究めてみたらいいとは言ったよ」 「いいことよね、全然家にいなくはなったけど……」  ふとその声色に寂しさが混じった。  彰人と香織の弱点その2は、意外に寂しがりやなことだ。最近、彰人は改善されてきた気がするが、香織はあまり変わらない。普段はサバサバと人を寄せ付けない風すら装うくせに、誰かが自分から離れようとする素振りを見せたとたん、周りが驚くほど動揺する。  彰人が「心配している」と言ったのも、それを思ってのことだろう。香織は彰人が自分から離れることをかなり前から怖がっている。二人とも、どこまで気が付いているかはわからないけれども。 ただ、2人がどういう思いであれ、彰人の未来を決めるのは彰人でなければならない。 「俺もいいことだと思ってる。もう少し早くいってやればよかったな。来年の今頃は就活で忙しくて、部活どころじゃないだろうし」 「就活とか、そういう話もしてる?」 「いや、まだそこまでは。やっぱり、最近ゆっくり話す時間が減ったしな。今日は久しぶりに話した気がするよ」 「そう……」 「香織」  今しかない。俺は一つ深めの息をする。
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