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「彰人が就職してこの家を出たら、俺たちはどうする?」
香織が弾かれた様に顔を上げた。
「もちろん、しばらくはこのままの『実家』があった方が彰人にとってはいいだろうし、無理に何かを変える必要もないのかもしれないが……俺たちは、その」
「わかってる」
香織は立ち上がると、俺にクリアファイルを差し出した。
「これを返しに来たの」
中には、少し黄ばんだ薄い紙が挟まっている。
十年以上前に渡した、俺の欄だけが埋まった婚姻届だ。
「こんな……まだ持ってたのか」
俺は信じられない思いでファイルに手をかけた。もうとっくに捨てられたと思っていた。
入籍するのが当然と思い込んで、自分勝手に書いた婚姻届。ノーと言われたときは自分の思い上がりを突きつけられたようで、恥ずかしさでしばらく香織の顔が見られなかった。そして、彰人のためではなく、自分が香織と結婚したかったのだと改めて自覚した。
「捨てにくくて、でも返すタイミングもなくてね。だけど今、私が持っているのは、きっと気分がよくないだろうと思って」
「気分?」
「彰人がひとり立ちしたら、ここを出て、誰かと結婚するんでしょう」
「え?」
――誰かと結婚? 誰が?
香織は「いいのよ」と言って顔をそむけた。
「いいのよ、隠さなくても。気が付かなくて悪かったわ。いい人がいたら結婚しなさいなんて言っておきながら、結局あなたの責任感に甘えてあなたを縛りつけてしまった」
「いや、香織、何」
「この家だって、私と彰人のために無理して用意してくれたのよね。わかってたのに、結局甘えて、こんなに長く居ついてしまってごめんなさい。お金はきちんと払うし、荷物もちゃんと整理するわ。彰人もわかってるんでしょう?」
「わかってるって、何を……」
無理やり顔をのぞき込むと、香織はぐっと眉根を寄せていた。
十年前にはわからなかった表情だ。
「あの子は私よりずっと大人に育った」
ファイルから手を放し、香織は続ける。
「私がわがままで産んだ子よ。だけど一静さんのおかげであんなに大人になった。本当のことを知って、あなたに本当に感謝してるんでしょう。だから、あなたが幸せになることをちゃんと応援してるのよね」
「応援、はしてくれてるけど……」
「気づかなくて本当にごめんなさい。私だってもうあなたを縛り付けたりはしない。きちんと、あなたの想う人と、正しい家庭を作って」
息が止まるかと思った。
体が、ゆっくりと冷えていく。
ただ頭は静かに考えていた。
香織が勘違いしているのは分かった。とっぴょうしもない妄想だ。それはいい。いや、よくはないが、もう一度きちんと説明すればいい。だけど。
「香織、ちょっと座って」
俺は香織の肩を押さえてもう一度ベッドに座らせ、自分もそのすぐ隣に座った。
「正しい家庭ってなんだ?」
僅かに触れる腕から、彼女も体が冷えているのがわかる。
「俺は彰人を息子だと思ってきたし、今もそうだ。血が繋がらなくても、彰人は俺を父と呼ぶ。君と一緒に育ててきた、大事な息子だ。それは何も間違ってなんかない」
白くなってきた自分の手を見つめながら、出来るだけゆっくりと、静かに、俺は続けた。
「間違っていたのは、これを渡したときの俺だ。あの時、結婚しようと言う前に、彰人のためにと言ってしまった」
だがそのせいで、香織は俺を拒んだ。
「結局俺はただ、君に断られるのが怖かっただけだ。俺は彰人を利用したんだ。あれは本当に、後悔してる」
目を閉じると、瞼の裏がチカチカと白く光る。
そろそろばしっと決めてよね。脳裏に彰人の声が蘇る。十年以上色んな言い訳を考えてきたが、結局は、認めたくなかっただけだ。なんて馬鹿なんだ。彰人まで巻き込んで。先生が聞いたらげんこつ1つでは済まない。
――そろそろ、ばしっと決めないと。
「俺はね、香織」
うつむいた香織の白い顔を、手でゆっくりとこちらに向ける。
「君を愛してるよ」
青くなった唇が、僅かに動いた。
「道で会えた時からだ。ずっと惹かれていた。俺は我が儘な男だから、君と長く一緒にいる方法ばっかり考えていた。考えすぎなくらいに」
笑え、笑え。少しでもカッコよく、心から愛してることが伝わるように。
そう思うほど顔は強張り、馬鹿でみじめな五十男の顔にしかならない。
俺は香織の顔から手を離し、婚姻届を蛍光灯にすかした。
「馬鹿だろう。予防線ばかり張って、こんなものを早々と用意してみたりして。断られて、他の人をと言われたときは本当に死ぬかと思った」
彰人がいなかったら多分本当に死んでいた。
「彰人と3人で、それで充分幸せだったし、今だってそうだ。でも俺はやっぱり我が儘で打算的で、諦めの悪い男だから、君にもう一回結婚を申し入れようと思う」
「――えっ」
ほとんど固まっていたような香織が、目を見開き声を上げた。
俺は立ち上がり、香織の前でひざを折った。関節がパキンと鳴る。カッコ悪いことこの上ない。
「もう俺は五十歳で、香織に100本のバラも、100万円の指輪も用意することが出来ない。だけど、100年君を愛することは誓える」
ばしっと、ばしっと。俺は一つ息を吐く。
「だから俺と、結婚してください」
香織の顔にふんわりと色が戻った。
白い指先に触れてみると、まだ冷たい。俺はその手を包むように握った。
「どうだろう。考えてみてくれないか」
香織の弱点は、畳みかけられると弱いこと。だが、今は焦らずに。
香織はしばらく驚いたような顔をした後、ゆっくり口を動かした。
「……私なんかに」
「なんかじゃないだろう」
「……私は、私と他人の子をあなたに育てさせたような女よ」
「俺に家庭をくれた女性だよ」
「……他人どころか」
「知ってる」
俺はクリアファイルで香織の唇を押さえた。
「それは言わなくていい」
香織はまた少し驚いたように息を飲んだが、俺は構わず続けた。
「これは香織に渡すよ。もし受けてくれるなら、明日の夜、これを持ってもう一回俺の部屋に来てほしい」
俺はまたパキン、と音を鳴らしながら立ち上がり、香織にも立つように促した。
「今日は遅くまでありがとう。引き留めて悪かったな」
「いや、そんな。私が勝手に」
「いいんだ。ほら、明日も朝から仕事だろう」
香織の体をくるりとドアに向かわせ、軽く押しながら――廊下へ聞こえない様に、小さく告げる。
「明日、待ってる」
びくりと肩を震わせた香織を「おやすみ」と押し出して、向かいの部屋の隙間から光が漏れていないことを確認してから、俺はドアを閉めた。
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