【勘違い】

2/2
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ
お昼前の時間帯はどこの診察室前も混み合っている。 食堂の前を通過してきた私は、食欲をそそられる匂いに誘惑された。 しかし、いくら私が大食らいで、食欲の秋とはいえ、大切な婚約者が運び込まれたという連絡を受けて、駆けつけてきたというのに、自分だけ昼食をとるという訳には無論いかないだろう。 頭に浮かぶのは、いつも無邪気に笑っている可愛い彼の顔。 彼はいったい何が原因で、この大病院に運びこまれてきたのだろうか、詳細は知らされていないが、私は彼のいる場所へと、ゆっくりと歩いて向かっていた。 実は先程、このリノリウムの真っ白な長い廊下を歩き出す前に、病院入り口すぐ横の受付でこう言われたのだ。 「江の木さんは、A棟1階のe診察室にいらっしゃいます」 受付の女性は落ち着いていた。 私が慌てふためいていた、というのもあり、彼女の微笑んで話す余裕のある様は、私を冷静にさせた。 そのおかげで、仙台港病院A棟1階e診察室の扉前に無事にたどり着けたというわけだ。 もう、息は切れていない。 ここへ向かう途中に、タクシーの運転手に「急いで」と怒鳴ってしまった事にさえ反省する事が出来る。 だいぶ、落ち着いている。 大丈夫ー。 例え、なにかあったとしても、大事には至っていないはずだ。 そうでなければ、こんな一般病棟の一診察室に彼は居ないだろう。 もしも、大事故に巻き込まれ、瀕死であるならば、行く場所はここではないはずだ。 『ICU』とか『手術室』とか、よくTVドラマで見る緊迫した場所に違いない。 大丈夫ー。 私は扉をノックをしようと、挙げた右手を軽く握った。 中から婚約者のカケルの声が聞こえた。 私はノックしようとする手を止め、代わりに耳を澄ました。 「先生、残された時間は…」 「100です」 「……分かりました。 では早速ですが、退院許可を貰えますか。残された時間は自由に使いたいのです」 「分かりました。ただ、残りの時間を自由に使いたいのなら、今すぐ行動しないと否、今すぐですら遅い……」 そこで言葉は途切れ、扉の向こう側で、ドドンという鈍い音が聞こえた。 私は咄嗟に扉を開けた。 そこには、俯せで倒れ込んでいる人の姿があった。 私は声を振り絞り、震え声で叫んだ。 「カケル!!」 床に伏せたままの江の木カケルは微動だにしない。 私は傍らで黙ってそれを見ている先生を睨みつけた。 「先生!」 白衣を纏った医師の胸元には[大野翔]というネームプレートが下げられていた。 大野翔は黒縁の眼鏡を外し、 「だから言ったでしょう?100しかないと」 といった。 「どうゆうことです!?」 私は[大野翔]のネームプレートを両手で強く掴み、引き寄せていた。 しかし、大野翔は気にすることなく、白衣の裾で眼鏡のレンズを拭くと、また、かけた。 「100」 大野翔の言った単語が、頭の中で永遠とリピートされている。 そして彼は続けた。 「100"秒"ですよ。あ、失礼、そうですよね…1分40秒のほうが本人にもご理解頂けたんでしょうね」 彼はヘラヘラしながらそう言うと、またもや眼鏡を外そうとしているのか、縁部分を弄りだした。 手に力が入る。 うまく呼吸が出来ない。針金で心臓をキツく締め付けられたみたいだ。 額から冷たい汗が流れ出るのが分かる。 脳内は爆発しそうな程に興奮し、熱を帯びている。 「先生、なんのご冗談?」 大野翔は眼鏡の縁を弄り続けている。 上に、下に、右に、左に。 「冗談?冗談じゃないから死んだんだろ!ほら、よく見てみろよ!即死だわなあ」 そう言い、倒れているカケルを指差した。 その瞬間、大野翔の口角が上がったのを見逃さなかった。 私は大野翔の眼鏡を奪い取り、床へ落とした。 カツンー。 「あなたの命はその100もないわ」 私は銀のカートの上に置かれたメスを手に取った。 「違うんだ」 大野翔は両手をバタバタと振り、焦っていた。 そして、カケルのものであろう付着した血を綺麗に拭き取ると、鋭く光る先端を、大野翔へと向けた。 エピローグ 僕の婚約者であるサヤカは、僕が病院に運ばれたと聞き、駆けつけてきてくれた。 ここまでは計算通りだった。 妊娠12週の胎児を宿している彼女が、実際にお世話になっている仙台港病院。 そして、今日は僕たちが交際を初めて、3年目になる記念日。 色とりどりの花束も用意した。 彼女の好きな大きなテディベアだって、診察台のベッドの中で、薄いシーツをかぶり、出番がくるのを心待ちにしているというのに……。 なんてこったー。 僕の名演技と、名作品であるダミー人形のせいで、目の前に立つ彼女は、白衣を着た僕を、僕だと思っていない。つまり江の木カケルではなく、医師免許を持つ「大野翔先生」だと思い込んでいるわけだ。 彼女は、僕が仕込んだ血糊のついたメスを握り、鬼の形相で僕に憎悪の眼を向けている。 「違うんだ」 僕がそんなことを言っても、彼女の耳には届いておらず、憎しみに駆られて、我を忘れてしまった狂犬のように牙を剥けていた。 しかし、正直なところ、仮にこのままメスでザクリと刺されたとしても、あれはレプリカだし、問題はないのだけれど。 問題があるというのなら、これからの彼女との関係に傷がついてしまうのではないか、ということくらいだ。 最悪、婚約破棄にもなり兼ねない。 このサプライズは失敗に終わるのか、それとも手の込んだサプライズとして、とり直すことが出来るのか。 どちらにしても、僕は精神誠意を込めて、彼女に謝ろうと思う。 僕のイタズラ好きも、そろそろ終盤を迎えるべきなのだ。 それにしても、と彼女が握っているメスを見る。 「よく出来てるよなあ」 彼女の手が震えている。 僕は心がチクリと痛むのを覚え、床に手と頭を擦りつけて、謝った。 「ごめんなさい」 カラン、という音と共に、メスが診察台の下へ滑り込んだ。 恐る恐る、頭をあげて見ると、彼女は両手で顔を覆っていた。 「ああ、泣かないでくれ」 だが、よく聞くと、彼女はククククククククと、笑っていた。 「うそうそ、今回も面白かったよ!カケル先生」
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!