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お昼前の時間帯はどこの診察室前も混み合っている。
食堂の前を通過してきた私は、食欲をそそられる匂いに誘惑された。
しかし、いくら私が大食らいで、食欲の秋とはいえ、大切な婚約者が運び込まれたという連絡を受けて、駆けつけてきたというのに、自分だけ昼食をとるという訳には無論いかないだろう。
頭に浮かぶのは、いつも無邪気に笑っている可愛い彼の顔。
彼はいったい何が原因で、この大病院に運びこまれてきたのだろうか、詳細は知らされていないが、私は彼のいる場所へと、ゆっくりと歩いて向かっていた。
実は先程、このリノリウムの真っ白な長い廊下を歩き出す前に、病院入り口すぐ横の受付でこう言われたのだ。
「江の木さんは、A棟1階のe診察室にいらっしゃいます」
受付の女性は落ち着いていた。
私が慌てふためいていた、というのもあり、彼女の微笑んで話す余裕のある様は、私を冷静にさせた。
そのおかげで、仙台港病院A棟1階e診察室の扉前に無事にたどり着けたというわけだ。
もう、息は切れていない。
ここへ向かう途中に、タクシーの運転手に「急いで」と怒鳴ってしまった事にさえ反省する事が出来る。
だいぶ、落ち着いている。
大丈夫ー。
例え、なにかあったとしても、大事には至っていないはずだ。
そうでなければ、こんな一般病棟の一診察室に彼は居ないだろう。
もしも、大事故に巻き込まれ、瀕死であるならば、行く場所はここではないはずだ。
『ICU』とか『手術室』とか、よくTVドラマで見る緊迫した場所に違いない。
大丈夫ー。
私は扉をノックをしようと、挙げた右手を軽く握った。
中から婚約者のカケルの声が聞こえた。
私はノックしようとする手を止め、代わりに耳を澄ました。
「先生、残された時間は…」
「100です」
「……分かりました。
では早速ですが、退院許可を貰えますか。残された時間は自由に使いたいのです」
「分かりました。ただ、残りの時間を自由に使いたいのなら、今すぐ行動しないと否、今すぐですら遅い……」
そこで言葉は途切れ、扉の向こう側で、ドドンという鈍い音が聞こえた。
私は咄嗟に扉を開けた。
そこには、俯せで倒れ込んでいる人の姿があった。
私は声を振り絞り、震え声で叫んだ。
「カケル!!」
床に伏せたままの江の木カケルは微動だにしない。
私は傍らで黙ってそれを見ている先生を睨みつけた。
「先生!」
白衣を纏った医師の胸元には[大野翔]というネームプレートが下げられていた。
大野翔は黒縁の眼鏡を外し、
「だから言ったでしょう?100しかないと」
といった。
「どうゆうことです!?」
私は[大野翔]のネームプレートを両手で強く掴み、引き寄せていた。
しかし、大野翔は気にすることなく、白衣の裾で眼鏡のレンズを拭くと、また、かけた。
「100」
大野翔の言った単語が、頭の中で永遠とリピートされている。
そして彼は続けた。
「100"秒"ですよ。あ、失礼、そうですよね…1分40秒のほうが本人にもご理解頂けたんでしょうね」
彼はヘラヘラしながらそう言うと、またもや眼鏡を外そうとしているのか、縁部分を弄りだした。
手に力が入る。
うまく呼吸が出来ない。針金で心臓をキツく締め付けられたみたいだ。
額から冷たい汗が流れ出るのが分かる。
脳内は爆発しそうな程に興奮し、熱を帯びている。
「先生、なんのご冗談?」
大野翔は眼鏡の縁を弄り続けている。
上に、下に、右に、左に。
「冗談?冗談じゃないから死んだんだろ!ほら、よく見てみろよ!即死だわなあ」
そう言い、倒れているカケルを指差した。
その瞬間、大野翔の口角が上がったのを見逃さなかった。
私は大野翔の眼鏡を奪い取り、床へ落とした。
カツンー。
「あなたの命はその100もないわ」
私は銀のカートの上に置かれたメスを手に取った。
「違うんだ」
大野翔は両手をバタバタと振り、焦っていた。
そして、カケルのものであろう付着した血を綺麗に拭き取ると、鋭く光る先端を、大野翔へと向けた。
エピローグ
僕の婚約者であるサヤカは、僕が病院に運ばれたと聞き、駆けつけてきてくれた。
ここまでは計算通りだった。
妊娠12週の胎児を宿している彼女が、実際にお世話になっている仙台港病院。
そして、今日は僕たちが交際を初めて、3年目になる記念日。
色とりどりの花束も用意した。
彼女の好きな大きなテディベアだって、診察台のベッドの中で、薄いシーツをかぶり、出番がくるのを心待ちにしているというのに……。
なんてこったー。
僕の名演技と、名作品であるダミー人形のせいで、目の前に立つ彼女は、白衣を着た僕を、僕だと思っていない。つまり江の木カケルではなく、医師免許を持つ「大野翔先生」だと思い込んでいるわけだ。
彼女は、僕が仕込んだ血糊のついたメスを握り、鬼の形相で僕に憎悪の眼を向けている。
「違うんだ」
僕がそんなことを言っても、彼女の耳には届いておらず、憎しみに駆られて、我を忘れてしまった狂犬のように牙を剥けていた。
しかし、正直なところ、仮にこのままメスでザクリと刺されたとしても、あれはレプリカだし、問題はないのだけれど。
問題があるというのなら、これからの彼女との関係に傷がついてしまうのではないか、ということくらいだ。
最悪、婚約破棄にもなり兼ねない。
このサプライズは失敗に終わるのか、それとも手の込んだサプライズとして、とり直すことが出来るのか。
どちらにしても、僕は精神誠意を込めて、彼女に謝ろうと思う。
僕のイタズラ好きも、そろそろ終盤を迎えるべきなのだ。
それにしても、と彼女が握っているメスを見る。
「よく出来てるよなあ」
彼女の手が震えている。
僕は心がチクリと痛むのを覚え、床に手と頭を擦りつけて、謝った。
「ごめんなさい」
カラン、という音と共に、メスが診察台の下へ滑り込んだ。
恐る恐る、頭をあげて見ると、彼女は両手で顔を覆っていた。
「ああ、泣かないでくれ」
だが、よく聞くと、彼女はククククククククと、笑っていた。
「うそうそ、今回も面白かったよ!カケル先生」
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