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夜も深まってきた頃、ロクとタツミは件の男の屋敷に忍び込んだ。
美しく、細部に至るまで整えられた中庭を抜けると、ひとつだけ灯りのついた部屋があった。
二人はその部屋に入ると、男の枕元に立ち、もし、と呼びかけた。
突然現れた二人に、当然男はひどく驚き、飛び起きた。
「我々は神の使いです。此度は貴方に伝えたいことがあり、ここに参りました」
ロクは慄き後ずさりをする男に対して、極めて優しい声でゆっくりと語りかけた。
我らの神は少しばかり、人間に厳しいお方で、今回も貴方に無理難題を押し付けてしまったようですね。ここまで貴方はよく務めを果たしました。
しかし、そのために罪の軽い者や、時には罪なき者まで処刑したというではないですか。
貴方の願いを叶えるために、いたずらに多くの人々の命が犠牲になる……。それは非常に傷ましいことであると我々は考えます。
もし仮に、貴方が百人の人間を殺したとして、生まれた貴方の孫がそのことを知ったとしたら、どう思うでしょうか。貴方たち人間のことですから、そのことに負い目を感じてしまうのではありませんか?
貴方の願いを叶える方法を、今一度、私共と考え直してみてはもらえませんか。
なんとまぁ、これまた臭い話をしやがったもんだ。
と、タツミは密かにロクの作戦とやらを感心していた。実に神々しいもの言いである。生まれてくるかもしれない子どもの気持ちを代弁するとは、なかなか良心を抉られる。
だが、すでに九十九人を殺め、野望が叶うまであと僅かとなったこの男に、このありがたい説法が効くのだろうか。
そのタツミの評価を裏付けるように、男は肩を震わせて、わなわなと口を歪めた。
「考え直す……?考え直すだと?!有り得ぬ。断じて有り得ぬ」
それはそれは、気持ちのいいほどの拒絶であった。
一言声を出すと、堰を切ったように男は自らの身の上話を、これでもかと抑揚をつけて披露し始める。
「私の娘が、嫡子を、国の当主の後継を産めなければ!……娘を嫁に出した我が一族の責任が問われる。そうなれば、娘も私も、一族もろとも皆殺しであろう。これまでの私の苦労も何もかも、なかったことになる。それだけは、それだけは避けなければならなかった。だが何をしても、娘から生まれるのは女ばかり!もうどうにもしようがなかった。あとは神に縋るほかないと……。
しかし、そんな私に、神はこう告げられたのだ。百人の命を捧げれば、お前の娘に男子を宿すと。……だから、私は串刺しの刑を言い渡した。その数いまや九十九。ここまできた。あと一つ、あと一つなのだ」
男の気迫に乱されることなく、ロクは先ほどと変わらぬ調子で説得を試みた。
「ですが、その九十九の命が散ったことはやはり悔やまれます。せめて、その他の方法はないのか、と神にもう一度問うてからでも遅くは……」
「卑しい身分の百の命と、我ら気高き血統の命。どちらを優先すべきかなど、天秤にかけるまでもないことではないか!」
後継を産ませるためなら、なんだってやってやる。
執念と欲望とを織り交ぜて煮込んだような瞳で、男はギリリと二人の神使を睨みつけた。自らの目的を果たす、その障害となるものは何であろうと射殺さんばかりの眼光である。
「卑しい命、か」
タツミがぽつりと、男の言葉を繰り返した。
「……たしかに、俺らの神さまは命を天秤にかけたりなんかしねぇ」
言いながら、男の方へ一歩、一歩と歩みを進める。
タツミの脳裏には、またあの女の姿が映し出されていた。
涙を湛えた目を、決して現実からそらさなかった、あの女。
「ただ、ムシも、ヘビも、シカも、ヒトも、何もかも、皆等しく同じ”命”だ。そこに貴賤なんぞあってたまるか」
タツミはいつになく表情を強張らせ、声を憤怒の念に震わせている。
処刑場の女……、彼女をあんな哀しい姿にさせる者が卑しい存在などとは、とてもタツミには思えなかった。
しかし、男にタツミの怒りは届かぬ様子であった。
「何を訳の分からぬことを申すか!さては貴様ら、私を誑かさんとする、妖の類だな」
男は先ほどよりもさらに目を吊り上げ、憎悪を露わにしている。
「何としても、百人。百人を、私は天に捧げなければならないのだ」
呪詛のように、そればかりをつぶやくその姿は、もはや獣じみていた。
男は部屋に飾られていた刀をサッと手にすると、大きく振り上げ、雄叫びをあげる。
「この化け物が!退治してくれる!」
あぁ、いいだろう。望むところだ。
勇ましくこちらに斬りかかってくる男を、蛇のように冷たい視線で逃さぬようにしながら、タツミは身を低くして腕を振りかぶった。
刀と拳。
両者がぶつかり合う、その一歩手前で、男が動きを止めた。
「そんなに百人目が欲しいなら、貴方がそれになればいいじゃないですか」
ロクの手はいつの間にか、長く大きな槍が握られていた。
おそらく神使の力を使って、その手に瞬時に武器を呼び寄せたに違いない。
槍を持ったまま、ロクはこれまた早業で二人の間に割って入ったのだろう。
その結果、タツミを斬ろうとした男は勢いのまま、その刃に吸い込まれるようにして突き刺さってしまっていた。
ほんの一瞬の出来事であった。
「な、なぜ……。神は……」
それだけ言うと、男は事切れたようだ。
ぱたり、とあっけない音を立てると、そのまま二度と動かなかった。
「貴方の言葉を借りるなら、我ら神の使いの命と、貴方の醜く卑しい命。天秤にかけるまでもなかった、というだけのことです」
ロクは槍に男を刺したまま、その長身を駆使してずいと持ち上げると、庭へ向かう。
そして、ちょうどいい盛土を見つけると、男ごと槍をそこに突き刺し、磔にしてしまった。
「どうすんだよ、これ。死んじまったじゃねぇか」
部屋から出てきたタツミは、俺がぶっ飛ばすつもりだったのによと言いながら、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
返り血を無造作に拭うと、ロクはタツミにいつもの調子で返す。
「殺したとは、心外な。此奴が勝手に槍に飛び込んできて、勝手に死んだのです」
「……お前、こうなることがわかってて、あんな作戦取っただろ」
「さぁ、どうですかね。……しかし、どんな形であれ、我らの神が願いを叶える必要のない状態にはなったのですから。神との契りを知る者は、此奴の他にいないわけですし、私たちの仕事はこれにて終いです」
帰りましょう。
そう言うや否や、ロクは振り向きもせずにその場を後にした。
タツミも「なんだよ」と悪態をつきながら、それに続く。
庭には磔の男だけが残され、月の影が落とされるだけであった。
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