100日

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「ご飯、出来たわよ」 階下から俺を呼ぶ、妻の声。 その声に被せるように、俺は小さく溜息をついた。 「今行く……」 艷やかな裸体を惜しげもなく晒し、こちらに挑発的な瞳を向ける女性……を映すウィンドウを閉じ、重い腰を上げて食卓へと向かう。 「今日はカルボナーラよ」 妻の微笑みとともに、机にコトリとお皿が置かれる。 同棲前に揃いで買ったエルメスのプレートだ。 中央に乗せられた半熟卵からドロリと黄身が溢れ出し、生麺にはクリームソースが絡まっている。 付け合せのポテトサラダやオニオンスープも、綺麗に盛り付けられていた。 見た目の良い食事にジュルリと唾液が広がったが、俺は慌ててそれを打ち消した。 「美味しい?」 「ああ……」 ぱくり、と口に押し込んだ途端、喉に込み上げてくる苦い液体。 それを水で流し込みながら、俺は相槌を打った。 妻の料理は、なぜこんなにも不味いのだろう。 妻と結婚してからというもの、5年間で体重は10キロ近く減り、元々が標準体重だったのもあって、頬はゲッソリとこけてしまった。 俺の記憶の中では、2年ほど前までは家庭的なご飯が食卓に並んでいた気がする。 それが、どうしてこうも変わってしまったのだろう。 いや、心当たりがあるとすれば一つだけ…… 憂鬱な理由は、それだけではない。 飯を囲みながら、恵子から毎晩のように聞かされる近所の人たちの悪口。 「山下さんの息子さん、今学校に行ってないんですって。 ずっと部屋に引きこもってるらしいわよ。 親不孝よねぇ」 「隣の家の宮本さん、趣味でピアノを始めたんですって。 部屋が防音になってないから、煩くて堪らないわよ」 そして、いつの間にか俺の愚痴へと移行する。 「貴方、今月の給料低いじゃない。ボーナスはちゃんと貰えるの?」 ……そんなことを聞かされながら食べる食事は、最悪だ。 若い頃の妻は、誰もが振り返るほど美人だった。 そしてその面影は、今でも残っている。 こんなにも美しく家庭的な女性を妻に持ったことを、俺は誇りに思っていた。 お互い高齢結婚のため、結婚後すぐに子どもを欲しがった妻。 1年後には不妊治療を始めたが、なかなか子どもを授かることができなかった。 理由は、妻側の不妊。 子宮内膜症により、精子が着床しづらいことが判明した。 落ち込む妻を宥めながら、手術をさせて、体外受精に臨んだが、一向に授かる気配はなかった。 しばらくして、俺が管理職にキャリアアップしたことで残業が増え、不妊治療にも満足に通えなくなってしまった。 その頃から、優しかった妻は徐々にヒステリーを起こすようになった。 「子どもと仕事、どっちが大事なの?」 「私には時間がないから、今すぐにだって子どもが欲しいのに!」 「どうして私達には子供が授からないの……?」 妻の悲痛な叫びが、今でも耳にこびり付いている。 ようやく子どもを諦めて、夫婦二人だけで生きていく選択をした時には、妻は精神病に罹っていた。 長らくの不妊治療で心が壊れ、ノイローゼになったのだという。 子どもがいない生活を悲観していたかと思えば、突然喚き散らして手に負えなくなる。 いわゆる、鬱病だ。 子どもがいない悲しみは、俺も同じだというのに…… 現在(いま)は、寝室さえ別になった。 何度か妻に離婚したいと申し出ても、妻が応じてはくれない。 「ただいま」 山になった書類の束を片付けて、妻の待つ家に帰る。 妻の姿や返答はなく、散らかったテーブルの片隅に無機質なコンビニ弁当が置かれている。 音を立てずに扉を開けると、カーテンが締め切られた寝室で、妻が声を押し殺して泣いていた。 会話も、食事も、性行為もない生活。 寝ている妻の首を絞めたいと、何度思ったことだろう。 妻を殺したい。 殺したい。 殺したい。 ノートに乱書きなぐった言葉が、ついに100ページを超えていた。
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