百人目

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 コンビニの駐車場には、誰かパンくずでもまいたのか、たくさんのハトが群がっていた。彼らは、首を忙しく振り立てながら、アスファルトの上に落ちた何かをついばんでいる。車が一台入ってきたが、一向に避ける気配がない。堪りかねた運転手がクラクションを鳴らしたが、遊びに夢中な子供のように、のろのろと隅に寄っただけだった。  ハトを踏まないように避けながら、ようやく入り口にたどり着く。  朝から、異様な風景だ。 「おめでとうございます! 百人目です!」  コンビニの入店音を掻き消す拍手に、僕は思わず後じさった。後ろを見ると、ハトが何羽か、首をかしげてこちらを見ている。 「百人目ですよ!」  ストライプのシャツが近づいてきて、僕の手を握った。汗ばんだ感触に、手を引こうとしたが、店内の拍手が大きくなり、しかたなく握り返した。 「あ、ありがとうございます」  反射的に礼を口にしてしまったが、急いで買い物を済ませないと電車に遅れる。時計が気になるが、嬉しそうに手を握る店員を前に、あからさまに時間を確認するのは気が引ける。 ――通勤時間帯に百人目を祝福するキャンペーンは失敗だよ。 と言ってやりたいところだが、 「あの……ちょっと……行かないと」 と言うのが限界だった。 「そうですよね、そうですよね。すみません、どうぞ買い物してください」  他の買い物客の視線を感じながら、ジャスミン茶とゼリー飲料を手に取り、レジでスキャンして決済を済ませた。後ろからひそひそ話が聞こえてくるが、意識から締め出してコンビニを出た。その後で、キャンペーンの景品をもらいそびれたことに気が付いた。どうせ時間を奪われたのなら、景品までちゃんともらっておくんだった。こんなこと、そうはない。  歩きながら時計を確かめる。裏道を通れば間に合う。ゼリー飲料を口に、アパートの脇をすり抜け、住宅街に出た。  一晩降り続いた雨は明け方には上がり、濡れたアスファルトで光が跳ねる。「行ってきます」の声が聞こえて、ふと空を見上げると、白くかかった靄の向こうから、さっきの店員の「おめでとうございます」がよみがえる。週の頭はいつだって憂鬱なものだが、ラッキーが一つあるだけで、穏やかな気分になれる。  ゼリー飲料がなくなる頃、駅が見えてきた。急行が止まらないため、通勤時間帯でも電車の間隔が十五分近くある。その分、混み具合は多少はましなので、満員電車の苦手な僕にとってはありがたい。  鞄からパスケースを出して改札にタッチすると、ブザーのような聞き慣れない電子音が鳴った。期限が切れているわけでも、出場記録がないわけでもない。背後から聞こえた舌打ちに、頭を下げながら脇にどく。窓口の駅員が手招きしている。 「すみません。なぜか通れなくて」 「おめでとうございます」駅員が身を乗り出して囁いた。「百人目ですよ」  ちょっと待て。いくら、小さな駅だからって、朝の通勤時間帯に僕が百人目なんてことは、ありえない。 「何だっていうんですか。ふざけないでくださいよ」 「そんなこと言わないで、握手してください」  構内に優美なメロディが流れ、電車の到着を知らせるアナウンスが続く。 「いい加減にしてください。通して!」  僕は駅員の手を振り払って、窓口の前の改札を通り抜けた。無賃乗車と間違われないか、という懸念が頭をよぎったが、そんなこと気にしている場合じゃない。そもそも、あの駅員が悪いのだ。  スーツを三人追い越して、階段を駆け上る。発車のベルが、けたたましく鳴り響く。膝を引き上げて、二段飛ばし。降車する人はほとんどいない。間に合う。ベルは鳴り続ける。ゆったりしたテンポで、僕の時間に合わせてくれている。  今日の僕は、ついてる。  右足を一気に前へ出し、プラットホームを踏みつけたその時、風にさらわれたかのように、ベルの音が消えた。扉はまだ開いている。 「百人目ですよね」  背後から肩をつかまれ、反射的に振り返る。その時、聞き慣れた空気音とともに扉が閉まり、遅刻が確定した。  ふざけるな、と思いながら、声の主を見ると、駅の係員だ。学生のバイトだろうか。この駅は、どいつもこいつも。 「君ねえ」 「百人目なんですよね」僕の怒りを完全に受け流す。「握手してください」 「人が乗ろうとしてるのに」そう言いながら、何かが引っ掛かる感じがした。気になるほどに語気は弱まる。「もういいよ。ほっといてくれ」 「え、握手は」  睨みつけたが、係員は残念そうな表情を浮かべただけで、詫びの言葉一つなく、仕事に戻った。そんなに凄みがなかったのだろうか。十以上も年下のバイトになめられて、仕事には遅刻。ついてると思ったのは勘違いだったみたいだ。  ベンチに座り、連絡のためにスマホを取り出した時、何が引っ掛かったのか、気が付いた。  あの係員は「百人目ですよね」と言ったのだ。僕に確認したのだ。  どうして僕に聞く? お前らが勘定してたんじゃないのか?  スマホの画面を見ていると、通話がつながった。 「おはようございます。第三開発部の黒野ですが、部長をお願いします」 「社員番号を」 「は?」 「社員番号を」  社員番号なんて、聞かれたことない。そもそも、どこに書いてあるんだ。 「パスケースの中に、社員証が一緒に入っています。そこに書いてあります」  言われるがままに見てみると、確かに社員証が入っている。いつ撮ったのか忘れてしまった証明写真の横に、四桁の番号が書かれている。喉の奥から、吹き出すように笑いが漏れる。 「0100です」 「しばらくお待ちください」  社員番号まで百だなんて、今まで気づかなかった。偶然にもほどがある。壊れたからくり人形みたいに、噛み殺した笑いが止まらない。  はたからは、どう見えているだろう。朝のホームのベンチで、社員証を見つめながら肩を震わせているスーツの男。リストラされたか、会社が倒産したか――どう見ても、普通の状態じゃない。  そういう意味で言えば、百にやたらと付きまとわれる今日の僕は、普通の状態じゃないな。 「お待たせしました。今、会議中なので、こちらで要件をうかがいます」 「そうですか。いや、電車に乗り遅れてしまって、十五分ほど遅刻します」 「承りました。気を付けてください。自分だけの体ではないのですから」 「ありがとうございます」  電話を切ってから気が付いた。最後の言葉はなんだ。どういう意味だ。  会社にとって大切な人材だから? それでも、随分と奇妙な言い方に思える。  電話口の受付の子が、個人的に思いを寄せてくれているとか?  再び笑いがこみあげてくる。そんなことはない、と頭で考えつつ、体の他の部分は、知らず期待してしまっている。恥ずかしい――と考えつつ、頭の中では受付の女の子たちの映像をスワイプしていく。  急行の通過を知らせるアナウンスが聞こえた。この電車に飛びつくことができれば間に合うのに、なんていうのは、子供の妄想だ。  その時、頭の上で何かが羽ばたく音がした。ハトだ。コンビニの前に群がっていたのと同じ、ドバトだ。  ハトは、何かに引き寄せられるように、急行の前に飛んでいった。運転手はハトを見たのだろうか。ブレーキの気配はなく、ドンという小さな音と同時に、跳ね飛ばされたハトが僕の足元に転がった。  出血はない。ただ、ふわふわの毛に覆われた首が、変な方向に曲がっている。 「すいませんね」  さっきの係員がやってきて、ほうきとちりとりでハトを回収していった。  よくあること、なのだろう。  ハトが一羽、電車にぶつかったところで、ダイヤは乱れない。  それなら、どうしてお前は電車の前に飛び出したんだ。どこに行こうとしていたんだ。  いや、帰ろうとしていたのか。  次の電車が来るまで、ハトが転がった場所を眺めていた。僕の前を通りかかった人が何人か、足を止めた。何か言いたそうに、僕の方を向いた足もあった。しかし、誰も何も言わなかった。あるいは、何か言ったのかもしれないが、僕には聞こえなかった。  電車が来た。  優先席の脇の連結部分に隠れたかったが、そこで「百人目です」と言われてもたまらないので、吊革につかまって寝たふりをした。  車内アナウンスが最寄り駅の名前を呼ぶ。目を開けると、窓の外に会社のビルが見えた。いつの間にか低く垂れこめていた雲が、ビルの壁面を墨色に染めている。ビルの上空をハトの群れが飛んでいるように見えたが、そうではない。あれはうちの社の静止ドローンだ。小さなプロペラを備えた灰色の機体が、海上に浮かぶブイのように並んでいる。この周辺は技研特区になっていて、法的な認可が下りていない技術でも、一定の情報公開義務を果たしさえすれば、試験的な運用が認められる。もちろん、個人に危害と損害を与えない限りにおいて、ではあるが。  あのドローンは環境調査という名目で開発している。しかし、その環境が自然環境を指すか生活環境を指すかによって、全く別の意味を持つ。危害も損害も与えないかもしれないが、全く別の大きな影響を持つ可能性は十分にある。  僕は自分の仕事に誇りを持っている。しかし、だからと言って、僕にとっての正しさを、そのまま社会にとっての正しさに置き換えるほど、僕は馬鹿じゃない。そして、僕の考える正しさを、自分の会社も持っていると信じるほど、愚かでもない。  一機のドローンが、ゆっくり旋回して、僕の方を向いた。僕の脳の波長を読み取って、悪意や敵意を察知する――そんなことは不可能だ。にもかかわらず、そのドローンが僕を監視しているような気がした。  振り返ると、乗客が全員、僕に向けてスマホを構えていた。スーツ姿の一人は僕と目があった瞬間、スマホの陰に視線を隠した。画面に向かって指を動かしてみせるが、僕の知っているどのアプリケーションも、そんなに素早い回転運動を要求したりしない。OLや大学生らしき人に視線を移しても、示し合わせたみたいに、同じ反応を返す。  百人目とか、くだらない冗談を言い出さないだけ、駅のバイトよりよっぽどマシだ。とはいえ、撮影されていたのだとすると、気分は悪い。  電車が止まり、扉が開く。僕は人波をかき分けて、ホームに降り立った。僕がぶつかった人からは、文句や愚痴ではなく、感嘆の声が漏れていた。気持ち悪くなった僕は、口元をハンカチで押さえて、エスカレーターを避け、階段を駆け下りた。  改札ではさっきと同じブザーのような電子音が鳴る。もちろん、入場記録の問題ではない。窓口では、やはり駅員が手招きしている。 「百人目です」  僕は駅員をにらみつけて、走り出した。後ろで騒いでいる声が聞こえるが、興奮混じりの歓声は、何を言っているのか分からない。  駅前の大通りの交差点に信号はない。技研特区では、自家用車の乗り入れが制限されている。ここを走る車は全て、自動運転車の公共交通化実験のためのものだ。うちの社とは別の企業の研究である。  広がった雲の隙間から光が漏れて、ビルの群れを照らし出す。気分は重いが、ここでこうしていても仕方がない。交差点を渡る。ここから見える限り、エントランスには誰もいない。まだ、朝のミーティングの最中なのだろう。 「おはようございます。お疲れ様です」  警備員が最敬礼の姿勢でおどけて見せる。いつも明るい彼は、こんな時にも気分を和ませてくれる。同僚のうわさでは、ネット上ではそこそこ名の知れたミュージシャンらしいが、どんな音楽をやるのだろうか。 「おはよう。今日も変わりなく?」 「月曜日の憂鬱も含めて、いつもどおりです。黒野さんは?」 「ちょっといろいろあって、こんな時間に」 「どうしたんですか」 「ハトが……いや、ハトは関係ないな」 「ハト?」 「こっちの話だよ」  空を見上げるが、生き物の気配はない。よそでは、カラスやネズミの害が問題になっているらしいが、この辺りではそういう話は聞かない。どこかの会社が既に、この辺りを動物の住めない環境にしてしまっているのかもしれない。 「いや、駅員につかまって、ね」 「そらそうですよ。百人目ですもん」  どういうことだ。どうして、警備員の彼から、百人目という言葉が出るんだ。何のことだ。 「それ……どういう意味?」 「あ、もしかして、言っちゃまずかったんですかね」 「いや、そういうことじゃなくて、何が百人目……」 「俺、仕事に戻らないと」  時計が振動した。見ると、部長からのメールだ。 「頑張ってくださいね」  彼は再び笑顔で敬礼し、来客の元へ駆けて行った。  彼には帰りに話を聞くこともできる。何はともあれ、部長にわびを入れなくては。  エレベーターの上ボタンを押すと、その瞬間、扉が開いた。転がり込むように中に入る。ラッキーだ。十秒二十秒待たされることなど、ざらだというのに、今日はついている。  ついている――考えてみると、奇妙な言葉だ。何かに憑りつかれているとでもいうのか。朝から百人目百人目って、僕の前の九十九人はどうした。どうして、僕の前にもう一人いない? 僕より遅れてくれてもいい。どうして、僕がちょうど百人目なんだ。  ボタンを押す前に、エレベーターが動き始めた。上で誰かが呼んだのだ。僕の行き先は十階。ボタンを押そうとして、回数表示の下に見慣れない液晶パネルが設置されているのに気が付いた。 「0100」  社員番号――だろうか。エレベーター内にいるのが誰か、特定する実験か? 何のために? だいたい、エレベーターに一人だけが乗る状況は、あまり多くない。人数が増えた時には、数字が小さくなって、全員分の社員番号が表示されるのだろうか。  違う。そんなことより、十階を押さなくては。  しかし、エレベーターは速度を落とし、僕がボタンを押す前に、十階で停止した。警備員から僕の到着を聞いた部長が待ち構えているのかもしれない。  扉が開くと同時に飛び出した僕は、頭を下げた。 「すいませんでした」  しかし、何の反応もない。背後でエレベーターの扉が閉まり、降下していく音がした。顔を上げるが誰もいない。  僕の知らないフロアだ。  エレベーターホールには、両開きの鉄の扉があるだけだった。右の壁に、カードの差込口がある。社内でそんな扉を見たことはなかったが、この特区ではどんなことでも起こりうる。  パスケースから社員証を取り出して差し込むと、モーターの駆動音が猛獣の唸り声のように鳴り響き、壁が崩れそうな轟音と共に扉が両側に開いた。  青くて弱い光に照らされた部屋の中には、男性の集団が向こうを向いて、軍隊みたいに整列していた。不思議なことに、全員が裸で、下着すらもはいていない。よくよく見てみると、身長も体形も、みんな同じに見える。そして、右肩に番号が振られている。  中心の二列の間から、こちらに歩いてくる人影がある。用心深く神経質な足音だ。白衣を着ているところを見ると、何かの研究施設なのは間違いない。 「遅かったじゃないか」 「部長……ですか」 「そうか、君の中では、僕は部長だということになっているんだな」  白衣が電灯の真下に来ると、見覚えのある顔になった。 「おめでとう。君で、ちょうど百人目だ」  白衣が手を差し伸べてくる。ふざけるな。 「いや、厳密に言うと、オリジナルの私が一人目だから、君は百一人目ということになるわけだが」  白衣の上に乗っていたのは、僕の顔だった。  噛み殺した笑い――今度こそ、冗談じゃない。  鞄の中に入っていたペットボトルを投げつける。白衣の頭に当たるが、何がおかしいのか大声で笑い始めた。 「全く本当に、君はどこまでも僕なのだな」拾い上げたペットボトルの蓋を開けて、一気に半分の量を流し込んだ。「あのコンビニのジャスミン茶がいいのだよ。よそでは、この味は出せない」  エレベーターだ。ビルから出なくては。  下りボタンを連打するが、なかなか来ない。 「連打しても、早く来るわけじゃない。それでも、なかなかやめられないんだよな、その癖」  言われて手を止める。 「逃げても、どうせ戻ってきてしまうっていうのに、どこに行こうっていうんだい。君の脳の機能には、帰巣性を埋め込んである。何度逃げても、ハトみたいにここに帰ってきてしまうんだよ」  駅で転がったハトの死骸が、視界いっぱいに広がった。どこからきてどこへ行くのか。それでも、帰る場所はいつも同じ。巨大なほうきが、巨大なちりとりの中に、冷たくなった死骸を掻き込む。ちりとりを持ち上げると、蓋が閉まって、即席の棺桶の出来上がりだ。  いやだ。僕は逃げる。 「僕は逃げる!」  言った瞬間、肩を叩かれた。全身から力が抜けていく。何か、刺された。薬だろう。 「おうい、運んでくれ」  薄れゆく意識の中で、最後に感じたのは、右肩に押し付けられた「100」という数字の痛みだった。
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