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「あ」
ふいに目が覚めた。
一瞬、実家のベッドにいるような気がして混乱する。
でも、そんなわけない。実家なんてもうずいぶん帰っていない。妹夫婦が両親と同居するようになってから、なんだか帰りづらくなってしまった。もう自分の居場所はないと思い知らされるような気がして。妹からすれば、好きなことだけやって、結婚もせずに生きている姉なんて理解不能だろうし、それはこっちも同じことで、ただ堅実な妹を持ったおかげで、気ままな生活を続けていられるのだとは思うけれど。
真っ暗な部屋に光の筋が差し込み、そのまま天井をなぞっていく。
下の道路を走る車のヘッドライトだ。
もうすっかり夜。いつの間に眠ってしまったんだろう。偏頭痛がするし、なんだか頭が薄ぼんやりして、はっきりしない。だから実家にいるような錯覚を起こしてしまったのだ。こんなふうになるから、普段から昼寝はもちろん、うたた寝だってしないようにしているのに。
いったい何時頃?
スマホはいつもベッドサイドのテーブルに置いてある。手探りで探る、あった。なんだか手に力が入らなくて、取り落とす。そういえば、なんだか全身がだる痛い。筋肉痛になっているような気がする。
23時55分……って嘘でしょ。
あと5分で今日が終わっちゃう。
跳ね起きたつもりがタオルケットに足を取られて、ベッドから転がり落ちた拍子に、したたかにおでこを打つ。
「ッ痛」
しかし、そんなことにかまっていられない。やらなくてはならないことがあるのだ。毎日かかさず続けてきたのだから、ここで途切れさせるわけにはいかない。ここで継続できなくなれば、引き寄せ効果が消え去って願いが叶わなくなる。
アファメーション。
これで私の人生はよくなってきた。
嫌な上司は地方に飛ばされたし、ずっと片思いしていた菅原くんと付き合うこともできた。
最初は自分をポジティブにするために、「私はできる」というアファメーションを一日に100回ずつ唱えていた。そしたら、ずっと自信がなくて立候補できなかったプロジェクトリーダーに手を挙げることができたし、憧れだった菅原くんとも話す機会が多くなった。
プロジェクトの結果も上々で、三ヶ月後には確実な数字となって現れるようになってきていた。初めは半信半疑だったけれど、アファメーションを続けることで、どんな未来だって引き寄せることができるのかもしれない、そう思うようになった。
ある日、ふとした思いつきで、「私はできる」にプラスして、「嫌な上司から卒業させてください」を唱えるようになった。本当はあまりネガティブなものはよくないらしいけれど、そうすることでなんだか気持ちが楽になるような気がして。
アファメーションの威力はすごくて、ものの一ヶ月程度で、その上司に異動の辞令が出た。噂はいろいろあったけど、アファメーションの威力にただただ驚いていてた。
本格的にやってみよう、そう決心したのはそのとき。
菅原くんには当時、秘書課の美人な彼女がいたけれどダメもとだ。
「菅原くんがフリーになって、私と付き合うことになりました、ありがとうございます」
この頃には、アファメーションは過去形で唱えたほうがいいという話を聞いて、まるで叶ったかのようにお礼を言うという形式に変化していた。
効果はてきめん。秘書課の美人は取引先の社長と結婚することになったとかで、菅原くんはものの見事にフラれたのだった。傷心の彼を誠心誠意なぐさめて、癒しているうちに、自然な流れで付き合うようになったのだ。
ああ、時間がない。もうあと、4分しかないじゃない。
ゆっくりとした呼吸を繰り返したのち、そっとアファメーションを唱え始める。
「菅原くんとずっと添い遂げることができました。ありがとうございます」
いつもより早回しで繰り返す。なにしろ時間がないのだ。スマホをちら見しながら、唱え続ける。回数を忘れないように、正の字を広告の裏に書いていく。
21回、22回、23回。
それにしても、どうしてこんなに時間がなくなってしまったのだろう。いつもは朝一で唱えて、出勤しているのに。
オートマチックにアファメーションを唱えながら考える。
43回、44回、45回。あと、3分。
あ、違うじゃない。今日は休みなのよ。それで昨夜から菅原くんが泊まりにきていて……だからできなかったんだ。
さすがにアファメーションを唱えている姿を堂々と菅原くんに見せることは憚られた。たぶん、だいたいの男性は引くに決まってるから。
68回、69回、70回。あと、2分で30回唱えればいいんだから、楽勝、楽勝。
あ?
菅原くん、そういえばどこに行った? 帰った?
思わずアファメーションが止まる。
そうたしか、彼、シャワーを浴びてくるってバスルームに行って……その合間にアファメーションしようとして……それから?
突然、スマホからゴジラのテーマが流れだした。1分前にアラーム設定したのだ。
あと、一分。
よけいなことを考えている場合じゃない、ともかく今は、アファメーション、アファメーション、アファメーション100。
もはや呂律も回っていない状態で、唾を吐き散らしながらともかく唱える、いや吠える。
「すがぁらくん……ず……そい……げる…っした……あざーっす」
97回、98回、99回……。
その瞬間、エレクトリカルパレードが華々しく鳴り響いた。
午前0時。
「やだ……間に合わなかったじゃん」
そんな、そんな。嫌だ、菅原くんと別れるなんてやだ。
「あ」
不意に思いだした。
菅原くんがバスルーム行ったあと、急いでアファメーションを唱えてたんだった。出てくるまでに終わらなきゃって必死で、それで……彼がバスタオルを取りにきていることに気づかなかったんだ。
ハッとして振り返ったとき、呆然として佇んでいる彼と目が合った。
あのときの彼の青ざめた顔。
表情のない目。
「ち、違うの」
慌てて駆け寄ろうとしたけれど、彼ははっきりと拒絶した。
「よるな!」
「菅原くん?」
「マジ、こえーよ、おまえ」
心底、怯えたような声で彼は言った。
あまりのことにぺたりと床に座り込んでしまう。おそるおそる横目で伺いながら、彼がソファに置いてある自分のカバンを引きずり寄せる。
「あ、あのさ、このこと俺、誰にも言わないから。だからさ、これっきりにしよう」
秘密にしたらこの呪縛から逃れられるとでも信じているのか、菅原くんはひきつった笑みを浮かべた。塩でも持っていたら「悪霊退散」といって投げつけくるに違いない。そのまま後ずさりしながら、ドアから出て行った。
そうだったんだ、あまりのショックでそのまま寝込んじゃったのだ。
「なんだ、間違えちゃった」
記憶がよみがえった彼女は、ほんのりと笑う。
「私ったらバカね……こう唱えなきゃいけなかったのに」
そして燃え尽きてしまったお香をかえて、新たに火をつける。お香からは密やかに煙が立ちのぼる。
「菅原くんが私のもとに戻ってきました、ありがとうございます」
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