モンスター

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モンスター

日曜日の夜、こざっぱりした格好の老紳士がBar MATSUHOを訪れた。 常連とは少し違う雰囲気の小柄な男の登場に、店は少し静かになる。 アキラママは男を見ると嬉しそうに笑った。いつも笑っているアキラママだったが、このときの笑顔はあからさまに普段と違った。それに驚き客もそしてバーテンダーのシュウもアキラママと男の動向が気になり、何気ないふりをしながら視線は二人を追っていた。 「お久しぶり、桐谷(きりたに)さん」 「そんなふうに言われるくらい会っていなかったかな、アキラ」 「そうですねぇ。でもお顔は覚えていましたよ」 「それはよかった。MATSUHOを出入り禁止にされると困るからね」 「フフフフ。お席、カウンターでよろしいかしら」 「ああ」 アキラママが空いているカウンター席を整える。 「ああ、あとからもう一人来るんだ」 「あら、お一人じゃないの?」 「うん」 会話をしながらアキラママはてきぱきとカウンターに二人分の席を用意し、箸と箸置きを整えた。 「なにか飲まれます?」 「うーん、食事がしたいんだがな。アルコールはそのあとゆっくり飲みたい」 「珍しいですね。それなら食前酒として梅酒を猪口一杯いかがです?レモンドレッシングで和えた水菜サラダとカルパッチョを少しお出ししますよ」 「いいね。じゃあ、そうしてくれ」 「チーズもつまみます?」 「少しね」 「はい」 アキラママは鼻歌でも聞こえてきそうなほど機嫌よくカウンターの中で桐谷のオーダーの準備をする。 シュウはそっと熱々のおしぼりを桐谷に差し出すと、「ありがとう」とにっこりと笑い桐谷はそれを受け取った。 「新しいバーテンダーかい?」 「ええ、シュウというの。シュウちゃん、こちら桐谷さん。昔からのお客さんなんだけど、最近はあまりいらっしゃらなかったのよ」 普段は言わない拗ねたことをアキラママが言うものだから、周りはひりひりはらはらしながら不躾に視線を送る。 「初めまして。シュウと申します。よろしくお願いします」 「はい、よろしく」 「それで、今夜はどうなさったんです?」 「どうもしないよ。アキラママの料理を食べにきたのさ」 「ふうん」 含みをもたせた二人のやり取りに視線だけでなく、周囲は耳もそばだててしまう。 桐谷は明るい緑が美しい水菜のサラダと半透明の白身のカルパッチョ、そして二種類のチーズをつまみながら、ゆっくりと梅酒を飲み、アキラママと楽し気に会話をする。 今夜のアキラママは大きな珊瑚の丸い(かんざし)を挿しているが、それが妙になまめかしく見えるのは気のせいか。 二人はどういう関係なのか。これまでになにがあったのか。好奇心は溢れそうになるが、誰もそれを聞けるはずもない。 と、店の扉が開いた。 明るい色の髪をした美しい男が入ってきた。少し湿気をまとって汗ばんでいる。 「優也」 桐谷が軽く片手を上げると、優也と呼ばれた男はぱっと顔を輝かせてカウンターに向かった。 「あら、雨?」 アキラママの問いに男はうなずき「霧雨ですよ」と答えた。その声の柔らかさに店中が酔いそうになる。 「こちらにお座りになって」 あらかじめ用意していた席にアキラママが誘う。シュウが奥から乾いたタオルを持ってきて、男が座る前に差し出した。 「ありがとうございます」 にっこりと甘く微笑んで受け取ると、客の中から「ほぅ」という息をもらす音がした。 優也がタオルで身体を軽く拭くと、桐谷が手を差し出し優也はタオルをその手に渡した。桐谷が背中や頭の後ろを優しく拭いてやる。 使い終わったタオルをすかさずシュウが受け取り、優也は席についた。 「わあ、おいしそうなものを食べてますね、(じん)」 「ああ、うまいよ。君もつまんでみるといい。梅酒も一杯もらうかね」 「そうします」 「同じものをご準備しましょうか」 「いや、これから飯を食べるからこれでいいはずだよ。どうだい、優也」 「ええ、十分です。梅酒だけください」 「はい」 桐谷と優也は小さな猪口で軽く乾杯をし、優也は残っていたものをちまりちまりと食べた。 特に気に入ったのはレモンドレッシングだった。 「これ、おいしい!アーモンドの刻んだのも入ってる!」 「な、うまいだろ」 「ええ。とてもおいしいです。大鉢もおいしそうなものばかり」 「どれにする?決めずに君を待っていたんだ」 「そんなこと言って仁、自分が好きなものばかり食べるくせに」 「優也が好きなものも頼めばいいさ。メバルの煮つけなんてどうだい」 「ふふふ、おいしそうですね。お豆腐と葱も入ってる」 「じゃあ、メバルは決まりだ。あとアキラママの味噌汁はうまいよ」 「ええ、今夜はそれがメインですから」 「あらあら」 アキラママは桐谷と優也のやりとりをじっと見ていて、やっと会話に入ることができた。 「初めまして。こんばんは。アキラと申します」 「初めまして。優也と申します。今日は仁おすすめのお店だと聞いて楽しみにしていました」 「お恥ずかしい。でも気に入ってもらえたのならしっかり召し上がっていただきたいです。バーなのにご飯と味噌汁がウリなんですよ」 「素敵です」 「優也さん、ぬか漬けはお好き?」 「はい」 「じゃあ、それもお出ししましょうね」 「楽しみだ」 桐谷と優也は大鉢をのぞき、アキラママに聞きながら注文を決め、ほかほかでぴかぴか光るご飯と熱々の味噌汁、そしてぬか漬けを出してもらった。 小皿や小鉢に盛られた料理を前に三人は会話をしながら楽しんだ。 シュウは他の客のオーダーを取り、さばいていく。 いつもはアキラママに甘えたい客も今夜はなりを潜めていた。それくらいアキラママが気負わず、楽しそうにしていたからだ。 食事が一通り終わり、食器が片づけられると桐谷は口の端を上げて笑いながらシュウに声をかけた。 「オーダーをいいかね」 「はい。なににいたしましょうか」 「私にはバーボンのロック。優也にはなにかカクテルを。どちらも君のおすすめで」 「ちょっと、仁」 「彼とは初めてなんだ。おすすめのものをもらおうじゃないか」 「でもいきなりじゃ」 「ぱっとインスピレーションで。君も好きだろう、こういうの」 「嫌いじゃないですけど、お困りになるんじゃ」 「大丈夫よ」 優也の言葉にアキラママが面白そうに笑って答えた。 「シュウ、あんた試されてるの。受けて立ちなさい」 シュウは少し腰が引けた。 「桐谷さんはなにをやっても勝てっこないわ。だから遊んでもらえばいいの。きっと優也さんにも勝てっこないわよ」 「ひぇ」 「情けない声出してるんじゃないわよ。好き放題させてもらいなさい。バーボンはとりあえず一番高いのにしといて」 「ははははははは」 桐谷が大声で笑う。 「うちの大事なバーテンダーにちょっかいを出そうとするんですもの。それくらいは出していただかないと」 「それはそうだね。じゃあ、それをもらおう」 「ちょっと、仁」 「君も黙って見ておいでよ。彼が何を作るのか」 「フフフフ、楽しみ」 アキラママまでもけしかけるのでシュウは逃げることができなくなり、息を吸い呼吸を整えるとちらりと優也を見、そしていつも自分がカクテルを作る場所へ背筋を伸ばして立った。 それからグラスとシェイカーを用意し、慎重に一つずつの作業に重みを持たせながら材料を計り入れていく。緊張感が漂う。すべてが揃うときっちりとふたをし、シュウはシェイカーをリズムよく振る。 小気味いい音が止まるとふたを開け、グラスに中身を注ぐ。 優也の前にコースターが置かれ、その上に美しい緑色のカクテルが載っていた。 優也が名前を尋ねると、シュウは小さめな声で「モンスターです」と答えた。 「こんなに綺麗なののモンスターなんですか」 手入れをされたしなやかな手でグラスを持ち、光に透かしたあと、優也は一口飲んだ。 「うん、おいしい。あっさりしているのかと思えば、喉の奥で複雑な香りが混ざるんですね」 「そういうふうに仕上がっていれば、よかったです」 自信がなさそうな声だったが、安堵した表情のシュウが笑顔になった。 と、アキラママがさっきよりにやにやを増した顔でシュウを見ていた。それに気がついたシュウは不満げな声を出した。 「なんですか、アキラママ」 「だって、それ」 アキラママは蠱惑的な流し目で優也が飲んでいるカクテルを見た。 「シーイング・ジェラシーをベースにしているでしょ」 今度は桐谷が笑い出す。 優也は唖然としてシュウを見つめる。 「煮えたぎる嫉妬、がベース。面白いね。で、それになにを追加したの」 「…それは…」 シュウが言い淀むとアキラママが悪戯っぽい顔をした。 「グリーン・アイズもイメージしたっぽいわ」 桐谷は大笑いをした。 「煮えたぎる嫉妬にまだ嫉妬を追加して『モンスター』!君、優也を見てそんなに嫉妬を感じたの?」 「あ……。いや、その……。すみません……」 シュウは真っ赤になって俯いた。 「外れてはないよ、シュウ。優也はアキラにちょっと嫉妬しているんだから」 「仁!」 「あらあら、そうなんですか」 慌てる優也と面白そうに口紅をくっきり引いた形のよい唇をにぃっとさせて笑うアキラママ。それを見て楽しむ桐谷。 「嫉妬じゃありません。仁がアキラさんの料理をべた褒めするので関心を持っただけで」 「まあ、嬉しい。レモンドレッシングのレシピ、お教えしましょうか」 「いいんですか」 「ええ、もちろん。優也さんなら桐谷さんのお好みに合わせて作れるし」 「え」 優也の動きが止まる。 そして桐谷のほうを見る。 「仁、なにか話したの?」 「いや、なにも」 アキラママはにっこり笑う。 「ええ、特には。ね、シュウちゃん」 「は、はい。桐谷さんにお連れ様がいらっしゃるということくらいしか」 桐谷はアキラとシュウに誇らしげに言った。 「一週間前に養子縁組をしたんだよ、私たち」 「まあ、それはおめでとうございます」 「誰かに自慢したくなってね」 「フフフフ、そりゃあこんな素敵な方なら自慢もしたくなりますでしょう」 「ちょっと、なに言って」 「自慢するにもね、相手を選ぶんだ。優也をさらわれてはいけないからね」 「私なら安心、と」 「ああ。君の好みはもっとがっちりした人だろう」 「最近、私も変わりましてね。シュウちゃんもいいなぁ、と思うんです」 「そうだね、かわいいね。でも優也には手を出さないだろう」 「本気になればわかりませんけど、少なくとも今はそういう気持ちにはなりませんね。魅力的な方だからいつ酔ってしまうかわかりませんけれど」 桐谷とアキラママは目を合わせると悪い笑顔を浮かべた。 優也はそれを面白くなさそうに見ながら、モンスターを飲んでいる。 「シュウ、面白いオリジナルカクテルだったよ」 桐谷が綺麗にウィンクを投げたので、突然のことにシュウはドキドキと顔を真っ赤にして「ありがとうございます」と小声で言った。 「シュウさん、私にもバーボンください。ロックで。ここで一番高いので」 優也がむくれた表情でそうオーダーすると桐谷とアキラママはまた笑った。 「優也さんへの一杯はご馳走しますよ。このたびはおめでとうございます」 優也はにんまりと笑って礼を言った。あまりのかわいさにシュウの顔がまた真っ赤になった。 おしまい
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