違和感

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 見慣れたアイボリーのタイル張りのマンションに駆け込み、七階で止まっているエレベーターを無視して非常階段を駆け上がり、四〇五号室の前で足を止める。  息を切らしながら、ポケットから鍵を取り出し鍵穴に挿し込み右に回すが、それ以上動かない。鍵が開いている。ドアを手前に引き、慌てて放り投げるように靴を脱いで部屋に上がる。 「秀仁!」  リビングに入るドアを開け放しながら名前を呼んだ。思いの外出た大きな声が、誰も居ない部屋の静寂に消えていく。自分の寝室にも期待した背中はなく、今朝までリビングにぽつんと置かれていたスポーツバッグだけが無くなっていた。  荒い呼吸だけが響いて、喪失感と虚無感が襲ってくる。 「……まあ、そうだよな」  状況を把握した瞬間、簡単に諦めの言葉を吐き出した。期待していなかったという風を装いながら、できるだけ傷付かないようにするのは、俺が三十三のいい歳の狡い大人だからで、でもそんな自衛が必要なくらいショックを受けたということでもあった。  ――あんなことを言ったから、嫌になって出て行ったんだろうな。  嫌悪したのだ、と思う。同性から性的対象として矛先を向けられたら、俺が逆の立場だったら嫌悪しない方が可笑しい。その上、上京したてで全く勝手がわからないのに、知らない街に一人置いていかれて、怒りも沸いただろう。  ――せいせいした。これで厄介事ともおさらばだ。  そう思ったら、変な笑いが出て頬の筋肉が引き攣る。だってあんなに無口で無愛想で理解不能で、嫌いな従弟と関わらずに済むのだから。ただ勝仁おじさんに申し訳ないなと思うぐらいだ。 「ああ……散々な日だった」  胸がざわざわして仕方が無いのだけれど、どうやって収めればいいのかも分からず、そんな言葉を吐いて寝室のベッドに横になる。  一日感情が上下したり走ったり慣れないことばかりしたせいだろうか。疲労感で身体が鉛のように重く感じる。瞼を閉じ長く細い息を吐きながら、心を落ち着かせる。  あいつが――秀仁が、怒ったり泣いたり、笑ったりするのを、見たかったな、などと、眠りに就く前にぼんやりと思った。
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