第六節 ハルという存在

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第六節 ハルという存在

 漸く剣術鍛錬の時間が終わり、剣術師範代のホムラがウェーバー邸から去っていく後姿を見送っていたハルは、自身に向けられている視線に気が付いた。  ハルが視線を向けている(ぬし)――ビアンカへ目を向けると、物言いたげな翡翠色の瞳と目が合った。 「な、なんだよ、ビアンカ……」  ビアンカの何かを訴えかけるような眼差しに、ハルはたじろぐ。 「――ハルが弓を使えたって、初耳なんですけど……」  つい先ほど、ホムラからの問いにハルが答えていた内容に対し、ビアンカは不満げな雰囲気を醸し出し、そのことを口にする。  ビアンカにとって、ハルが旅をしていた頃に弓を使っていたことは初めて聞いた事実であった。そして――、それを今まで自身に教えてくれなかったこと。それが至極不満だったのだ。 「あー……。今まで聞かれなかったからな……」  ビアンカの問いに、頭を掻きながらハルは返す。  ハルの返答にビアンカは「はぁ……」と、溜息を吐き出した。 「ハルって、いつもそうだよね……」  ビアンカは、不服な雰囲気を存分に込めた声音の言葉を零す。 「こっちから聞かないと、自分のこと何にも話してくれないんだもん」  不満そうな表情を見せるビアンカは、どこか寂しげで――。そのビアンカの様子は、ハルの心にチクリとした痛みを伴った。  ハルは眉間を寄せ、心の中でビアンカに対し「ごめんな……」――と思う。  ハルはミハイルに与えられた任務――。ビアンカの“友達”として以上の、“親友”のような気の置けない間柄になったにも関わらず、自身の出自に際してビアンカには決して話せないことを隠している。そのため極力自分自身の話は、ビアンカが聞いてきた必要以上のことを話さないよう、細心の注意をしていた。  だが――、ハルのその所業に、ビアンカは聡く勘付いており、こうして不満を口にしてくる。  ハルは申し訳ないと思いつつも、ビアンカに何も答えることができなかった。  向き合う二人の間に流れる沈黙――。  それは――、ハルにはとてつもなく長いものに感じた。 「――まあ、いいや。言いたくないことの一つや二つ、誰かしら持っているものだよね」  ビアンカは場の沈黙を破るように、急にあっけらかんとした態度を見せ、くるりと(きびす)を返してハルに背を向けた。  ビアンカのその切り替えの早さに、ハル思わず呆気に取られてしまう。  しかし、ハルは自分自身のことを無理に詮索しようとしないビアンカの性格には、ありがたさを感じていた。  だが、自身からビアンカに対して一線を引き、壁を作ってしまっていることに申し訳なさを抱き、心苦しさも感じる――。 「時が来たら……、話、するからな……」  ハルは――、至極小さな声で呟く。 「ん? 何か言った?」  しかし、ハルの呟いた言葉はビアンカの耳には届いていなかったらしく、背を向けたままハルの方へ首を傾げて振り向いた。 「いいや、何も言ってないぞ」  ハルは微かに笑みを浮かべ、かぶりを振った。  ――聞こえていなかったなら、それで良い。  自分は近しい者たちに不幸を撒き散らし、死を呼び込む存在――。  一つ処に長く留まっていて良い存在ではない。そんな自分自身の話をしたところで、ビアンカの得にはならない。ならば、このまま何も知らない方が、ビアンカにとって幸せなのだろう――と。そのようにハルは思い馳せていた。 「ところでさ、ハル」 「ん?」  ビアンカは再び(きびす)を返して、ハルの方に向き直る。 「鍛錬の続き、しよう。ホムラ師範代に棍術の話されたらさ。なんか、久々に棍、使いたくなっちゃったから付き合って!」 「えー……」  ハルはビアンカの言葉に思わず不満の声を上げる。  かれこれ三時間近く剣術の稽古を受けていたので、ハルは剣術の鍛錬に関して、今日はもう終わりにしたいと思っていた。  だが、ビアンカは元気が有り余っているようで、「文句言わないの!」と、叱咤(しった)してくる始末だった。 「棍、持ってくるからさ。ちょっと待ってて!」  そう言い出すとビアンカは、ハルに有無を言わせずに屋敷の中に姿を消した。  ビアンカが屋敷の中に姿を消したのを見止め――、ハルはその場に座り込み、仰向けに寝転がる。  ビアンカが棍術で扱う棍を持って戻ってくるまで、暫しの休憩のつもりだったのだが。寝転がりながらハルは、自身の革の手袋を嵌めた左手を、静かに真上に持ち上げた。 「きっとビアンカの棍術のお師匠様の魂を喰ったのも――。俺、だろうな……」  ハルは掲げ上げた左手の甲に目を向け――、誰に言うでもなく小さく呟く。  ビアンカが“護身用”として、昔から習っていたという棍術の師匠であった老夫――ゲンカクは、一年ほど前にこの世を去っている。  かなり高齢の老夫であったため、高齢故の突然死とされたが――。その前日までは本当に元気でビアンカと楽しげに話をしつつ、棍術の稽古をビアンカにしていたことをハルは思い返す。  長年の付き合いがあった老夫の突然すぎる訃報を聞いたビアンカの嘆き様は、ハルの心を大きく傷付けていた。  そのゲンカクを死に至らしめ、ビアンカを悲しませる原因を作ったのは――、自分自身だろうと。ハルは考えを巡らせる。  ハルの身に宿る人の魂を喰らい死に至らしめる呪いは、ハルの周りの人間を徐々に死に追いやってきていることを実感させていた。  ハルは掲げ上げていた左手を、自身の額と目元を覆うように落とす。そして、大きく重苦しい溜息を吐き出した。
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