座席の何か

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 窓際に、一列に座席のある電車の中、一番隅に座った私は、揺れに意識を奪われて眠り込んだ。  耳の奥に、かすかにゴトンゴトンと音がする。  快速列車だから、次の駅まではまだ十五分くらいこのままだ。  電車の振動がちょうど眠るには心地よくて、少しだけ意識のある状態で転寝をしていたのだけれど、ふと、座席の遠くの方に妙な気配を感じた。  何かがこっちに向かってきている。それも、座席の上を這うように。  私の乗り込む駅が一番一人出入りが激しくて、それ以降は割と車内は空いているけれど、いつも、それなりに座席は人で埋まっている。這って移動などできる状態ではない。  なのに、何かがこちらに向けて移動している。しかも、それは絶対座席のをだと、妙な確信が私の中にはあった。  目を開けて確かめればそれが何かはすぐ判る。でも、こんな時だというのに眠くて眠くて目が開かない。  それでも体を動かすことはできたから、近づいてくる気配から遠ざかるように、私は半ば眠ったまま席を立ち、空いていると勘だけで察した対面の席に居場所を移した。  車内に悲鳴が響いたのはその直後だった。  反射で目を開けた私の視界に、喉元を抑えてもがき苦しむ人達が映る。  さっきまで私も座っていた前方の座席一列。そこに座る人達全員が、同じような状態で苦しんでいるのだ。  すぐに列車は緊急停止し、通報を受けて何台もの救急車によって、苦しむ人達は病院に搬送されていった。  同じ車両に乗り合わせていた私達も病院に行くよう指示され、そこで検査を受けたが、体に別状はなかった。  その時看護士さんに、搬送された人達は何が理由で苦しみだしたのか尋ねたけれど、原因を追求中とだけ答えが返ってきた。でもいまだにはっきりとした理由は判らないままらしく、テレビや新聞のニュースでも、特定された原因は公表されていない。  何かの薬品を使ったテロ、という説が有力だけれど、その痕跡は一切ないらしく、警察や鉄道会社の捜査は難航しているようだ。  だけど私は、何となくではあるが原因を知っている。  あの時確かに、何かが座席を這っていた。見てはいないけれど気配を感じた。  あの何かに触れたことで、座席の人達は苦しみだしたのだ。  ニュースで、全員翌日には回復し、程なく退院したと聞いたけれど、あの感覚は何だったのだろう。  あのままあちら側の座席に座っていたら、私も同じ苦しみを味わうことになったのかもしれない。  今も、通勤の都合で同じ電車を利用しているけれど、あの日の騒動以来、私はあの車両には乗っていない。そして私だけでなく、同じ体験をしたのか、あるいはただ不安感でそうしているのか、多少車内が混んでいても、あの車両のあの座席に座る人はほとんどいないようだ。  いまだ不明なままの、人々の苦しみの原因と、あの日座席を這っていた何か。  座る人がほとんどいなくなった座席を、今もあの何かは這っているのかもしれない。 座席の何か…完
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