── を 信じてはいけない

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 静まり返った倉庫内で、いち早く動いたのは石井だった。 「待って下さい先輩、美紀は──」  立ちはだかる石井を押しのけて前に出る。美紀に一歩近づく。 「……」  慌ても騒ぎもせず、美紀は俺を見据えていた。  ただ一言── 「どうして」  そうつぶやいた。 「ねえ恭介、あんたは今までの人生って、『普通』だった?」 「……?」 「小さい頃は両親に甘えて、学校でクラスメイトと恋の話に秘密の共有、友達と喧嘩して仲直りする、そんな『普通』よ」 「何の話だ?」  さらに一歩近づこうとするが、また石井が立ちふさがった。  先ほどと同様、押しのけようと手で押すと、それを拒んだ。その表情には固い決意が表れていた。 「……」  石井は無言で首を横に振った。少しだけ待って下さい。そう言いたいようだ。 「あたしの人生『普通』が一切なかったわ。両親から許された返事は、『ハイ』か『分かりました』の二つだけ。あたしだってやり遂げたら、今度こそ変われると思っていたの」    ──蔵元美紀と両親に、血の繋がりは無かった。  施設で育った美紀の引きとり人となった夫婦は、高名な教育者であり完璧主義者でもあった。  言葉使い、友人、趣味に至るまで一貫して管理し、美紀の幼少期の思い出は、牢獄のような部屋で日々机と向き合っていたことだけ。  美紀が十七歳のある日、厳格だと思っていた父が、"男"として彼女に手を出した。  異変に気づいた母は、言葉にならない声を上げ発狂し、狼狽える父に、かつての威厳はなかった。  それまでの生活が、嘘のように脆く崩壊。両親の離婚が決定する。  規律を重んじて過ちを許さず、聖職者だったはずの両親。  性の対象として自分を見ていた父と、自分を引き取ることで世間の称賛と、自己の『作品(あたし)』を創りたかった母。  最後まで世間体を気にした両親が、美紀の大学入学手続きだけは、済ませてくれていた。  大学の入学を機に、髪を明るく染め、言葉遣いも立ち振る舞いも全て捨てて、別人に生まれ変わる。 (父に汚されたあたし、母に創られたあたしは──もうこの世にいない)  新生活。元々知識の優れていた彼女は、『感情』ではなく『知識』で人と付き合う。  明るくイマドキ女子を演じる彼女の闇に、気付く者はいなかった。
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