第六章 僕もああなる

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第六章 僕もああなる

 翌朝目覚めると、楓はまだ眠っていた。寝顔があどけない。  ――結局何も訊けなかったな……。  一成は苦く思う。一日経ってしまえば余計に訊きづらかった。後で話すと言った彼の言葉を信じて待つか、訊きづらいところをあえて訊くか。  訊けばつらい記憶を掘り起こさせることになる。  一成は深く息を吐いた。白志多に来てから、ため息ばかりついている。たとえば社会人としては我慢しなければならないことや飲み込むほかないことも多く、報われずとも耐える姿勢が身に着いているが、これ(・・)それ(・・)とはまた違う。心根の幼い少年が、こんなふうに苦悩の傘の下にいるなど間違っている。  一成の吐息を聞きつけてか、楓が瞼を震わせた。静かに瞳が開く。一成を認めて、頬に笑みが浮かんだ。 「おはよう、一成さん」  楓は掛布団を跳ね除け、ベッドに座り直した。 「なんかこういうの、いいね! 朝起きたら隣に一成さんがいるの。すごく幸せ」 「え……。そう、かな」  冷たい手が、首筋に触れたかのように感じた。  特別な人だとか、隣にいると幸せだとか、気に入っただとか――それが何を意味しているのかわからないほど、一成もばかではない。孤独な少年がどれだけ優しさに飢えているかも。差し出された手がどれほど不確かなものであっても、彼はすがりつかずにはいられないのだ。  この状況は双方にとってよくない。かといって、きっぱり拒絶するのも楓が気の毒だ。 「楓君、その、俺は……」  しかし最後まで言えなかった。楓がはしゃいだ声で遮ったのである。 「ねえ、今日は何をする? 今日こそおじいちゃんの木に登る?」 「えっ、いや、それは無理だよ」 「それなら、釣りでもする?」 「釣り? 楓君、釣りするの?」 「たまにね。物置に竿あるから、後で取ってくるね」  楓の母親が朝食を用意していた。トーストと目玉焼きだ。一成が礼を言っても無視だが、 「牛乳まだある?」  楓が質問したのには反応した。 「あるわよ。牛乳だけでいいの? コーヒー淹れるならどうぞ」 「どうやって淹れるの?」 「スプーン一杯入れて、お湯」  インスタントコーヒーらしい。楓は瓶を開けてから一成を向いた。 「コーヒー飲む?」  一成は特にコーヒー派というわけではなかったが、ここで断るのもかえって失礼と思い頷いた。 「うん、もらおうかな」  楓は白いマグカップを運んできた。しかし、インスタントコーヒーすら「どうやって淹れるの?」か。母親は楓に何も教えてこなかったようだ。  楓の分はグラス一杯の牛乳である。トーストにはイチゴジャム。食事だけ見れば、小学生だと言われても信じてしまいそうだった。  朝食を終えると、楓は外の物置に行った。そこも鍵はかかっていないそうだ。戻ってきた時、手には百二十センチほどの玩具の釣り竿が握られていた。  一成は当惑する。 「ええと……。それで釣れるの?」  楓は屈託なく咲く。 「ううん、連れたことないんだ。でも、魚見てるの、楽しいから」 「そうか。じゃあ、まあ、いいか」  そうしてふたりで川へ行き、餌もついていない釣り糸を垂らす。当然ながら魚は見向きもしないが、楓が嬉しそうにしているから一成も何も言わない。他愛もない遊びに付き合うくらい、彼のためにしてやるべきだった。  空は晴れ渡り、雲ひとつない。楓の首の痣も薄れた。手首の方は、残念ながらまだ痛々しく痕が残っていたが。  楓は川縁(かわべり)の岩に腰かけ、靴を脱いで、素足を水に晒している。まだ冷たいだろうに、時折飛沫を跳ね上げてその光景を楽しんでいた。  道源の姿は、今朝は見ない。月曜である。楓の父親も八時前に出ていったし、道源も仕事なのだろう。集落の畑には人が出て作業に(いそ)しんでいる。誰もがなんらかの役割を果たす中、楓だけが取り残されている。  何もしなくていいのは気楽でいいとそれまでの一成は考えていた。あくせく働かなければ生きていけない自分を思い、一日中遊んでいられる者には羨望と嫌悪を抱いた。だが、楓を見ていると、それはそれで苦しいだろうと思う。なぜなら彼は何者でもないからだ。話もしない父親と、自立するためのことは何ひとつ教えない母親に挟まれ、飼い殺しのような日々だ。果たしてそれが幸福だろうか? 普通ならば恋愛もし、そろそろひとり暮らしもするであろう十八歳だというのに、彼は小学生のような遊びしかすることがないのだ。  太陽が天頂に近づいてくる。魚は一匹も釣れない。それでも楓は上機嫌だった。 「写真、撮ってもいいかな」  一成はスマートフォンを構えた。楓はにっこり笑う。前よりも自然な笑顔だった。 「見せて!」  楓が言う。 「いいなあ、僕もやっぱりもう一回スマホ欲しいなあ。写真も撮れるし、ゲームもSNSもできるし、みんなと連絡が取れて、世界が広がるよね」 「そうだね」  それは決して誇張ではない。スマートフォンを持った際、彼は事実そう感じたのだろう。 「そろそろ一回うちに戻ろう。今日はお母さんいるから、ちゃんとご飯食べられるよ。昼はオムライス作ってくれるんだって」 「楓君、オムライスは好き?」 「大好き!」  花川家では楓の母親が待っていた。口は利かないまでも、オムライスとコンソメスープを出してくれた。  昼食に息子の好物を作るのだから、彼女にも愛情はあるのだ。その人なりに愛してはいる。世の中の間違った親が大抵そうであるように。  楓は卵の上にケチャップで星を描いている。大きくひとつ、その傍に小さくもうひとつ。子どもの手によるがごとくの、ややいびつな星だった。 「見て見て」 「うん、上手だね」 「遊んでないで、早く食べなさい」  楓の母親が水を差した。  楓はそれを黙殺し、一成の方に身を乗り出してくる。 「そっちにも描いていい?」 「ああ、いいよ」  一成のオムライスに楓が描いたのは、楕円の花丸だった。 「絵を描くのは好きなの?」  一成はいつしか、幼い子を相手にするように楓に接していた。絵を描くのは好き? ――これが意味するところは、「お絵描きは好き?」だ。  楓はくるりと瞳を巡らした。 「わかんない。あんまり描いたことないんだ」  食事を終え、楓が一成の分も食器を下げた。彼の手伝いはそこまでだ。すぐに戻ってくる。 「午後はどうする? どこか行く?」  どこかといっても、見るほどの場所はもうない。それに、楓は一成が出ていくとは考えないのだろうか? 今日もここに滞在すると信じて疑っていない様子だが。  明日には東京に帰る。それを言い出すのが、いまはなんだか怖い。 「お店行く? 普通のスーパーだけど」  楓が誘った。 「あ、スーパーあるんだ」  言ってしまってから、失礼だったかと慌てて口を(つぐ)んだ。  楓は明るい笑いを弾けさせる。 「うん、あるよ! ちっちゃなお店だけど。ねえ、お母さん、僕ジュース買いたい」  楓の母親は財布を開けた。最初に小銭入れを見たが思った金額がなかったらしく、千円札を引き抜いて差し出した。 「五百円までにして。おつりは返して」 「はーい」
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