第四章 気にしないで

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 これからどうすべきか。楓の衣類を取ってこようか。いかにそうしたくとも、他人の洗濯物を勝手に漁るのは躊躇(ちゅうちょ)する。せめて楓に話したいが、彼は眠っている。それに、最も重要な証拠である楓自身が身体を洗ってしまった。あれでは体液は出まい。  楓はなんでもないと言い張った。  彼の母親も、口を出すなと言う。  一成の良心は、楓を警察に連れていけと言っている。彼を救うべきだと囁いている。  あの男、道源のふてぶてしい顔が脳裏に浮かんだ。たとえば、だが――あの男から直接話を聞けたとしたら、どうだろう? それを録音しておけたとしたら?  そう考えたのが、真に楓のためだったのか、それとも薄っぺらな正義感に煽られてのことだったのかはわからない。  一成はいったん二階に戻り、ジャケットを羽織った。  日曜の午前六時半である。非常識な時間だということはわかっていたが、じっとしていることもできなかった。  外に出て、昨日楓と歩いた道を辿る。歩いた、というより、昨日はほとんど走っていた。なんとかする、と楓は言い、なんでもするから、とあの男に懇願した。  合意の上だったのだろうか。ああなることは承知していて、楓は道源を頼ったのか? たかが旅行者を家に泊めるめだけに? いくらSNSで交流があったとはいえ、他人のためにそこまでできるものだろうか。その当人はいいと言っているのに。  迷いが足取りを重くさせている。いまの状況は何もかもおかしい。楓が無理を通して一成を泊めたことも、おそらくはそのために道源に傷つけられたことも、それを楓の母親が問題にしていないことも。  おかしなことはまだある。いまは三月の始めで、楓は十八歳だ。あとひと月足らずの間に誕生日が来るのでなければ、まだ高校生の歳だろう。  ――去年高校を卒業したのかな?  そう訊いた時、彼が答えなかったのは、高校を出ていないからではないのか。  よそ者を無視したり、追い出そうとしたり、学校にも通っていない十八の子がいたり……。この集落は不可解だ。  道源の家に来た。呼び鈴を鳴らすが、しばらく応答がない。二度めを鳴らし、待って、諦めかけた頃に扉が開いた。  格子付きの引き戸である。インターホンはついていないようだ。大きいが、古い家だった。 「なんですか? こんな朝早くに」  しかめ面で言ったのは、中年の女だった。道源の妻だろう。眉間の皺は深く、年月を重ねて刻まれてきたのあろうと思われた。楓の母親に雰囲気が似ているのは、表情が同じだからだろう。 「ご主人はいらっしゃいますか? お話しをしたいのですが」 「主人はまだ寝ています。後にしてください」  道源の妻は戸を閉めようとした。  一成は手を伸ばして押さえる。靴が目に入った。女物の靴と、スニーカー、それに……。  足りないようだ。昨夜ここに置いてあった、道源の靴がない。 「ご主人はご自宅にはいらっしゃらないんですね? どこですか?」  考えてみれば道理だった。いかに鬼畜といえど、家族のいる家で蛮行には及ぶまい。現場は別の場所で、道源はまだそこにいるのだ。  道源の妻は一成を見上げた。 「ここにはいませんよ。それが何か?」  楓の母親と同じ台詞だ。 「ご主人とお話をさせてください。昨夜のことについてお聞きしたいんです」 「どんなことですか? どうしてもっていうなら、私が聞いて伝えておきますけど」 「いえ、奥様にはお話しできません」  あなたの夫が少年を強姦したようだ――などという話を、女に聞かせられるものか。これは道源と直接、できれば邪魔の入らない場所で話すべき事柄だった。 「なら、お引き取り下さい。迷惑ですから」 「待ってください。ご主人の居場所を教えてください。大事なことなんです」  道源の妻は扉を閉めようと力を入れ、一成は閉め出されまいと止める。がたがたと戸を軋ませて、押し問答になった。  その時、奥から声がかかった。 「母さん、何してるんだ?」  若い男が居間から顔を覗かせている。楓より少し年上だろうか、目の前の女の面影があった。 「なんでもないから。あんたはご飯食べといて」  道源の妻は息子にはそう返し、一成に向き直った。 「あなた花川の家に泊まっている人でしょう? あの子から何を聞いたか知りませんけど、白志多には白志多のやり方があるんですよ。よその人が気にするようなことじゃないわ」  一成の指が引きつった。 「あの子から何を聞いたか……? どういう意味ですか、それは」 「あの子はおかしいんですよ。時々すごく嫌な、怖い目つきで私を見るの。気色悪いったらないわ」  道源の妻は一成の後ろを見やった。一成もつられて振り向いてしまったが、そこには誰もいない。  楓がついてきていると思ったのだろうか。あるいは、道源が帰ってきたとでも。 「楓君なら家で寝ています。その楓君のことで、ご主人にお話が……」  だが、その時ついに道源の妻が勝った。軋んだ音を立てて扉が閉ざされる。  一成は戸の前で立ち尽くす。  楓はおかしい。それは一成も認める。あの爪や、人を振り回す強引さなどを思えば、否定はできない。だが、たとえ楓がどんな子であったにせよ、それが縛られて首を絞められるほどの罪だろうか?  扉は開かない。一成は肩を落とした。徒労だった。花川家に戻ろうと踵を返し歩き始めたが、ふと立ち止まる。バッグからスマートフォンを取り出し、道源の家に向けた。  写真を撮ったところで、なんの役にも立たないだろう。虚しさが胸を塞ぐ。  一成は沈んだ気分を抱えてしばらく道を歩いた。SNSで見た楓の「かかし君」を見つけて、写真に収める。ほかにも数か所を写した。昨日からこちら、図らずも楓の言葉通りになっている。  ――この人、白志多の写真を撮りにきたんだ。  美しい土地だ。素晴らしい景色だと思う。けれど――。  ――いいのは景色だけ。  楓はいったい何を抱えているのか。なぜ、「あの子はおかしい」などと言われるような性格になってしまったのか。そして、昨夜は何があったのか。  考えれば考えるほど、胃が重苦しくなる。
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