132人が本棚に入れています
本棚に追加
/28ページ
第四章 気にしないで
明け方近く、一成は物音に目を覚ました。扉を開ける音のようだった。玄関。居間の扉。ひそやかな足音が続く。何者かの気配を、遠くに感じる。
一瞬ひやりとした。ひとり暮らしの自宅かと思ったのだ。泥棒でも忍び込んだのかと……。真っ暗な中にぼんやりと子どものもののような本棚が見えて、それでやっと楓の部屋だったことを思い出した。
彼が帰ってきたのに違いない。スマートフォンを確認すると、時刻は午前四時過ぎだった。
一成は身体を起こし、部屋から出た。ゆっくり、なるべく音を立てないように、階段を下りる。相手に気づかせないためにというよりは、ほかの家人を起こさないためだった。
一階に下りた頃には、バスルームから水音が聞こえていた。
そういえば楓は、帰ってきてからもう一度風呂に入ると言っていた。一成は居間のソファに腰かけて待ち、それでいてなぜ待っているのだろうと不思議だった。
二度めは少し長めに入ったようだ。それでも四十分は超えない。扉が開いて、閉まる。やがて、パジャマを着た楓が姿を現した。一成を認めると、彼は打たれたかのごとく立ち止まった。
「一成さん。なんで?」
ここでも「なんで」だ。楓の語彙は幅が狭い。
「なんとなく。ちょっと眠りが浅かったみたいだ」
「ああ……。もしかして、起こしちゃったかな。ごめんね」
「いや」
楓の髪が濡れている。今度は洗ったのだ。彼はタオルで頭を拭きながらソファに座った。
その首元が、紅い。
十八の子が朝帰りだ。そういうことがあってもおかしくはない。だが、相手は楓である。見た目はともかく中身はとても十八とは思えない幼げな彼が、誰かとそういうことをするというのだろうか。
いや、「する」ではない。「した」だ。いままさにそういうことを済ませてきたのだ。
が、一成は訝しく思った。よくみると、かえでの首の痣は耳に近い後ろに四つ、顎の下に一つと、やや規則的に並んでいる。愛撫の痕にしては、何かおかしい。
それに、楓は道源というあの男に呼ばれて行ったのだ。四十過ぎの男と十八の楓が男同士で色事を――とは考えたくない。考えたくはないが、楓の風貌を見ればいかにもありそうだという気もする。
一成は慎重に口を開いた。
「楓君、……首、どうしたの?」
楓はふっと笑った。作り物の笑顔だった。
「別にどうもしてないよ」
「でも、それ、その……もしかして……」
「なんでもないったら。こんなのたいしたことないんだよ。気にしないで」
一成は視線を落とした。楓は膝の上で落ち着きなく手を組み替えている。その細い手首には擦り傷があった。両方に、ぐるりと一周。
なんの痕だ。
一成は思わず手を伸ばした。しかし楓は、手首を押さえて隠す。
「僕、疲れちゃった。しばらく寝るね。お昼前には起きるから」
返事を待たず、彼は二階に上がっていった。触れられたくないのだろう。だが……あれは……あの傷は、嫌なことを連想させる。触れずにおいてはいけないようなことをだ。
迷った末、一成は楓を追いかけた。
楓は既にベッドの中だった。頬まで毛布を被り、寝息を立て始めている。眠りは穏やかなようだが……。
――気にしないで。放っておいて。構わないで。
疲れたと彼は言った。それは真実だろうか? 苦しんでいるの間違いではないのか?
一成は再び一階に下り、洗面所に向かった。タオルを拝借して顔を洗う。洗濯物の籠が目に入った。楓が着ていた服もあの中だろう。もしもそれが、何か……あまり言いたくはないようなもので汚れていたら、証拠になるのではないか。
証拠。なんの? まさか楓が強姦されたとでも思っているのか?
ああ、そうだ。昨夜楓は、道源に強姦されたのではないか――一成はそう考えている。だからこそ、彼の服を保管しておくべきではないかと思うのだ。
ただ、わからないのは、楓は自分からあの男の元へ行ったということである。そして、行かせたのは彼の母親だ。
――みんな死んじゃえばいいのに。
昨夜のあの言葉は、何を意味していたのだろう。
一成は頭をかきむしった。ともかくもこれからのことだ。楓は未成年だし、きちんと保護者がいるのだから、まずはそちらに話をせねばなるまい。
東の空が明るく輝き出した。新しい一日が始まる。一成はソファに腰を下ろし、うたた寝をしながら待った。
時計の針が六時を回った頃、上階の扉が開いた。足音が階段を下りてくる。
楓の母親だった。
一成は立ち上がる。
「おはようございます、花川さん。お話したいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
我ながら固い挨拶だった。
「なんですか? 何が不満?」
まだ何も言っていないのに、楓の母親は剥き出しの敵意を向けてくる。よそ者が嫌いなのに加えて、一成の存在は目障りなのだろう。
その点に関しては弁解もできない。一成は首を横に振った。
「いいえ、不満はありません。とてもよくしていただいています。お話したいのは、楓君のことです」
「あの子が何か?」
「ええ。ついさっき帰ってきたんですが、様子がおかしくて。首に、その……絞められたような痣がありました。それに、手首には擦り傷が」
あの擦り傷は、縛られた痕ではないのか。確証はない。けれど、手で押さえた程度でああなるとは考えにくかった。
楓の母親は苛立たしげに息を吐いた。
「それが? それがなんです?」
一成は耳を疑う。
「絞められた痕ですよ? おかしいと思わないんですか? もしかしたら、殺されるところだったかもしれないのに」
「大袈裟ね。そんなはずないでしょう」
「大袈裟ではありません。警察に相談すべきです」
一成は真剣だったが、楓の母親は笑った。疲れたような笑いだった。
「警察? 何言ってるんですか、ばかばかしい。そんなことしたら嗤われますよ。なんにもないんですから」
「なんにもないって、それなら楓君のあの怪我はなんなんですか? ちゃんと見て確かめてください。普通についた傷とはとても思えません」
「楓は寝ているんでしょう? わざわざ起こせっていうんですか?」
「いえ、そうではなくて……」
話が通じない。一成もイライラしてきた。
「何かあったんですよ。楓君に話を聞くのは起きてからでいいにせよ、これからどうするかは考えておかないと」
「くだらない。やめてください。口出ししないで」
一成は絶句してしまった。
くだらないとはなんだ。どういう了見だ。あの楓を見ても、くだらないなどとふざけたことが言えるのか。
ふつふつと怒りが沸いてきた。
「あなたは楓君のお母さんでしょう? 見るからに何か起こっているのに、知りたいと思わないんですか? それが親の義務でしょう。彼が心配じゃないんですか!」
「そんなこと、あなたに言われる筋合いありませんよ。大体お客さんには関係ないでしょう? 余計なことしてないで、早く帰ればいいんですよ」
一成は言い返そうとしたが、そこで楓の父親が現れて勢いを削がれてしまった。険悪なふたりをよそに、父親は食卓に向かう。無言である。陰気な男だ。
朝食の時間らしい。
「朝ごはん、食べるなら作りますけど」
楓の母親が言った。
言い争いの後で食事を作れと言うほど厚顔ではない。一成は食事を断り、話を終えた。
最初のコメントを投稿しよう!