第四章 気にしないで

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 いつの間にか正午に近かった。昼前には起きると楓が言っていたことを思い出し、一成は花川家に戻った。  塀にもたれ、楓が待っていた。 「よかった、ちゃんと帰ってきてくれた。荷物があったから大丈夫だとは思ったんだけど」  楓はうっすらと微笑んで言った。  昨日と同じ、子どものように幼い楓だった。首と手首の痣だけが、白い肌で異様に目立つ。 「楓君、大丈夫なのか? その……」  一成は楓の手首を指差した。  彼はちらをそれを見下ろし、 「うん。なんでもないよ」  まさしくなんでもないことのように言った。 「お腹空いてない? ご飯にしようよ。お母さん出かけちゃって、僕が作らなきゃいけないんだけど」 「ああ、そうなんだ……。お父さんは?」 「さあ、知らない」  父親も不在らしい。  洗濯物が庭にはためいている。楓の服も洗われてしまったのだろう。隅に黒いボクサータイプのショーツが見えた。  昼食は牛丼だった。レトルトである。楓はしゃもじを持つ手もぎこちなく、聞けば出かける前に母親がタイマー炊きで米飯も用意していったのだという。実質彼はなんの料理もしていなかった。  およそ自活能力というものを持ち合わせていない少年だ。それでも彼としては頑張った方と見え、満足そうにしていた。 「お母さんは、買い物か何か?」 「ううん、伯母さんのところじゃないかな。すごく怒ってたから。愚痴言いにいってるの。ああなると夜まで帰ってこないんだ」  一成は言葉に詰まる。  外に干された下着。楓の(・・)下着だ。普通ならば室内に干すであろう下着をわざわざ外に出し、怒りに燃え、出かけていった。楓の母親がなぜそんなことをしたのか、一成にはわかる。 「ごめん、楓君。お母さんが怒ったの、たぶん俺のせいだ。今朝ちょっと言い合いみたいになってしまって……。俺が、いろいろ言ったから」 「いろいろって?」 「君のこと。その……」  一成は言い淀んだ。が、目は口ほどにものを言っている。  楓が首をさすった。 「ああ……、これ……。一成さん、なんて言ったの?」 「おかしいって。もしかしたら殺されるところだったのかもしれない、とか」 「殺される? すごいね」  大袈裟だと彼も言うのだろう。だが、一成は気づいた。楓は口元では笑っているものの、目は虚ろだった。 「楓君。もし答えたくないっていうならそれはそれでいいんだけど……昨夜は何があったんだ?」 「さあね」  楓は微笑の仮面を崩さない。  一成は嘆息し、ためらいながら、話を続ける。 「門前払いされたけど、道源さんの家にも行ってみたんだ」  これは効果があったようだ。楓が大きく目を見開いた。 「えっ? 道源さんのところに? なんで?」 「君はあの男に呼ばれていったんだろう? ひどい目に遭わされたんじゃないかと思って、気になって……」 「本当に?」 「ああ。俺を泊めたからそうなったんじゃないのか?」  楓は視線を泳がせた。 「そういうわけでもないよ。昨夜は、たまたま」  嘘だ。「なんでもする」と言ったからだろう。 「だけど一成さん、道源さんのところまで行ってくれたんだね。お母さんとも喧嘩して……。僕のために。本当に僕を守ろうとしてくれたんだね」 「今朝の君の様子を見たら、誰でもそうするんじゃないかな。だって……」 「ううん、そんなことない。絶対、そんなことないよ。僕、嬉しいんだ。やっぱり一成さんは特別な人だ」  楓ははにかむ。  一成は胸を()かれた。どう答えてよいものかわからない。  楓は椅子の上で膝を抱えた。 「だけど、僕、いまはあんまり話したくないな。ちゃんとしたことは後で話すから、今日はゆっくりしようよ」  警察に行ったり、訴えたりするのならば、早い方がいいと一成は思う。が、楓はまだ疲れている。それに向き合う勇気が出ないのかもしれない。無理強いしては、さらにつらい思いをさせるだけだろう。  一成はやるせなく頷いた。 「そうだね。そうしようか。――そうだ、君の『かかし君』をさっき撮ってきたんだよ。昨日は撮り損なっちゃったからね」 「僕は撮ろうよって言ったよ? 一成さんがもうやめようって言ったんでしょう? でも、まあいいや。見せて」  一成からスマートフォンを受け取り、楓は写真を眺める。 「このかかし君、面白い顔してるよね。カラスが来てもぼけーっとしてるの。かかしなんて、いまはもうあんまりないんでしょう?」 「どうだろう。俺はほとんど見たことないな。カラスって頭がいいらしいから、かかしくらいじゃあびっくりしなくなってきたのかもしれないね」 「残念だよね。こんなにかわいいのに、役に立たないんだ」  楓はスマートフォンをテーブルに置き、膝に顎を乗せた。  道源の家の写真は見なかったようだ。それはよかったと一成は思う。 「僕、時々、かかし君に話しかけてみるんだ。動いたらいいのになって思って。かかし君はみんなのことずーっと見てるのに、なんにも知らないの。脳味噌がないから」 「ああ、『オズの魔法使い』?」 「そうかな。わかんない。子どもの頃にそんなような話を聞いた覚えはあるけど」  楓は瞼を伏せている。まだ眠たいのだろうか。 「かかし君は、楓君の友達なんだね」 「うん、そう。だからお喋りしたいんだけど、何も話してくれないんだ」  十八の子がするにしては、あまりに幼く、寂しい空想だった。これが楓という少年なのだ。純粋で、孤独で、傷ついている。僕を守ってと彼が言うのもわかる。あの両親や、道源という男、「おかしい」と彼を称する人々――楓には、守ってくれる大人がいないのだ。おそらくこれまでもずっとそうだったのだろう。 「お喋りなら俺としよう、楓君」  一成は言った。  ――俺が君を守るよ。  そう言わねばならないことはわかっていた。楓がそれを求めていることは明白であり、一成の方にもその気持ちは芽生え始めている。ただ、明後日には東京に帰る身で「守る」と言っても、無責任なだけの虚言になってしまう。  やりきれない。 「ねえ、東京の話聞かせてよ。人がいっぱいで物がいっぱいで、ほかには?」  楓が言った。 「ほかに? ほかには……。そうだな、何か撮影しているのを見かけることもよくあるよ。ドラマや映画だったり、動画、自撮り……」 「一成さんも自撮りしたりする?」  くりくりと目を動かして、いたずらっぽく楓は尋ねた。 「俺? 俺はしないよ。SNS見たらわかるだろう?」 「つくしさんは文字ばっかり」 「そう、文字ばっかり。写真を撮るにも気力が必要なんだ」 「家と職場の往復しかしてないって書いてたこともあったね。忙しいんだなって思ってた。ねえ、忙しいってどんな感じなの?」  一成は虚を突かれた。 「どんなって言われても……。とにかく、やることがいっぱいで、ひとつ終わらせてもまたすぐ次のが来て、休む暇がなくて……家に着いた時には、疲れてぐったりしてるみたいな感じかな。お父さんは忙しくない人なの?」 「知らない」 「なんの仕事をしているのかな」 「車の整備。町で」  父親に話が及ぶと、楓の口数は極端に少なくなった。話したくないというのがありありと表れている。  一成は話題を変えた。 「楓君は、自撮りはしないの?」 「しない。自分で撮るなんて恥ずかしいもの」  この話題は失敗とまではいかないが、広がらなかった。 「ねえ、東京の話してよ」  楓がねだった。聞きたいのはそれだけらしい。 「東京の話かあ。ほら、楓君、前に原宿とか秋葉原とか行ったことあるかって訊いたね。どっちもいつ行っても人がすごくて、俺はもっとのんびりしたところが好きかな」 「東京って、のんびりしたところあるの?」 「もちろんあるよ。まあ、東京の中では比較的、みたいな言い方になっちゃうけどね。オフィス街もあれば下町もあって、あんな狭い土地なのにいろんなものが詰まってるんだ。そういう意味では、退屈はしないかもね」 「へえ、そうなんだ。いいなあ」  俺にはここの方が羨ましいよ――とは、一成ももう言わない。 「いつか東京に来られるといいね」  こんなことしか言えない自分がもどかしかった。  楓はもの言いたげにこちらを見た。一成は何も言わないでほしかった。何を言われても彼の期待には応えられそうになく、嘘やごまかしでやり過ごすには彼の傷は深過ぎるのだろうから。 「散歩でもする?」  一成の内心を知ってか知らずか、楓は言った。 「そうだね。あ、待って」  白志多にはほかに何があるのだろう。  一成はスマートフォンのマップアプリを開いた。現在地、九田町白志多。バス停に集会所、川、丘と山。山の麓には神社がある。土地神様だろう。 「この神社って、君の写真にはなかったね」 「古くて汚いんだよ」  楓は言い捨てた。これもまた、彼には禁忌の話題だろうか。 「今日は晴れてるから、川に行こう。ね、一成さん」  楓は一成の腕を引く。その顔つきは、昨日よりもやや臆病だった。
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