131人が本棚に入れています
本棚に追加
/28ページ
いつの間にか正午に近かった。昼前には起きると楓が言っていたことを思い出し、一成は花川家に戻った。
塀にもたれ、楓が待っていた。
「よかった、ちゃんと帰ってきてくれた。荷物があったから大丈夫だとは思ったんだけど」
楓はうっすらと微笑んで言った。
昨日と同じ、子どものように幼い楓だった。首と手首の痣だけが、白い肌で異様に目立つ。
「楓君、大丈夫なのか? その……」
一成は楓の手首を指差した。
彼はちらをそれを見下ろし、
「うん。なんでもないよ」
まさしくなんでもないことのように言った。
「お腹空いてない? ご飯にしようよ。お母さん出かけちゃって、僕が作らなきゃいけないんだけど」
「ああ、そうなんだ……。お父さんは?」
「さあ、知らない」
父親も不在らしい。
洗濯物が庭にはためいている。楓の服も洗われてしまったのだろう。隅に黒いボクサータイプのショーツが見えた。
昼食は牛丼だった。レトルトである。楓はしゃもじを持つ手もぎこちなく、聞けば出かける前に母親がタイマー炊きで米飯も用意していったのだという。実質彼はなんの料理もしていなかった。
およそ自活能力というものを持ち合わせていない少年だ。それでも彼としては頑張った方と見え、満足そうにしていた。
「お母さんは、買い物か何か?」
「ううん、伯母さんのところじゃないかな。すごく怒ってたから。愚痴言いにいってるの。ああなると夜まで帰ってこないんだ」
一成は言葉に詰まる。
外に干された下着。楓の下着だ。普通ならば室内に干すであろう下着をわざわざ外に出し、怒りに燃え、出かけていった。楓の母親がなぜそんなことをしたのか、一成にはわかる。
「ごめん、楓君。お母さんが怒ったの、たぶん俺のせいだ。今朝ちょっと言い合いみたいになってしまって……。俺が、いろいろ言ったから」
「いろいろって?」
「君のこと。その……」
一成は言い淀んだ。が、目は口ほどにものを言っている。
楓が首をさすった。
「ああ……、これ……。一成さん、なんて言ったの?」
「おかしいって。もしかしたら殺されるところだったのかもしれない、とか」
「殺される? すごいね」
大袈裟だと彼も言うのだろう。だが、一成は気づいた。楓は口元では笑っているものの、目は虚ろだった。
「楓君。もし答えたくないっていうならそれはそれでいいんだけど……昨夜は何があったんだ?」
「さあね」
楓は微笑の仮面を崩さない。
一成は嘆息し、ためらいながら、話を続ける。
「門前払いされたけど、道源さんの家にも行ってみたんだ」
これは効果があったようだ。楓が大きく目を見開いた。
「えっ? 道源さんのところに? なんで?」
「君はあの男に呼ばれていったんだろう? ひどい目に遭わされたんじゃないかと思って、気になって……」
「本当に?」
「ああ。俺を泊めたからそうなったんじゃないのか?」
楓は視線を泳がせた。
「そういうわけでもないよ。昨夜は、たまたま」
嘘だ。「なんでもする」と言ったからだろう。
「だけど一成さん、道源さんのところまで行ってくれたんだね。お母さんとも喧嘩して……。僕のために。本当に僕を守ろうとしてくれたんだね」
「今朝の君の様子を見たら、誰でもそうするんじゃないかな。だって……」
「ううん、そんなことない。絶対、そんなことないよ。僕、嬉しいんだ。やっぱり一成さんは特別な人だ」
楓ははにかむ。
一成は胸を衝かれた。どう答えてよいものかわからない。
楓は椅子の上で膝を抱えた。
「だけど、僕、いまはあんまり話したくないな。ちゃんとしたことは後で話すから、今日はゆっくりしようよ」
警察に行ったり、訴えたりするのならば、早い方がいいと一成は思う。が、楓はまだ疲れている。それに向き合う勇気が出ないのかもしれない。無理強いしては、さらにつらい思いをさせるだけだろう。
一成はやるせなく頷いた。
「そうだね。そうしようか。――そうだ、君の『かかし君』をさっき撮ってきたんだよ。昨日は撮り損なっちゃったからね」
「僕は撮ろうよって言ったよ? 一成さんがもうやめようって言ったんでしょう? でも、まあいいや。見せて」
一成からスマートフォンを受け取り、楓は写真を眺める。
「このかかし君、面白い顔してるよね。カラスが来てもぼけーっとしてるの。かかしなんて、いまはもうあんまりないんでしょう?」
「どうだろう。俺はほとんど見たことないな。カラスって頭がいいらしいから、かかしくらいじゃあびっくりしなくなってきたのかもしれないね」
「残念だよね。こんなにかわいいのに、役に立たないんだ」
楓はスマートフォンをテーブルに置き、膝に顎を乗せた。
道源の家の写真は見なかったようだ。それはよかったと一成は思う。
「僕、時々、かかし君に話しかけてみるんだ。動いたらいいのになって思って。かかし君はみんなのことずーっと見てるのに、なんにも知らないの。脳味噌がないから」
「ああ、『オズの魔法使い』?」
「そうかな。わかんない。子どもの頃にそんなような話を聞いた覚えはあるけど」
楓は瞼を伏せている。まだ眠たいのだろうか。
「かかし君は、楓君の友達なんだね」
「うん、そう。だからお喋りしたいんだけど、何も話してくれないんだ」
十八の子がするにしては、あまりに幼く、寂しい空想だった。これが楓という少年なのだ。純粋で、孤独で、傷ついている。僕を守ってと彼が言うのもわかる。あの両親や、道源という男、「おかしい」と彼を称する人々――楓には、守ってくれる大人がいないのだ。おそらくこれまでもずっとそうだったのだろう。
「お喋りなら俺としよう、楓君」
一成は言った。
――俺が君を守るよ。
そう言わねばならないことはわかっていた。楓がそれを求めていることは明白であり、一成の方にもその気持ちは芽生え始めている。ただ、明後日には東京に帰る身で「守る」と言っても、無責任なだけの虚言になってしまう。
やりきれない。
「ねえ、東京の話聞かせてよ。人がいっぱいで物がいっぱいで、ほかには?」
楓が言った。
「ほかに? ほかには……。そうだな、何か撮影しているのを見かけることもよくあるよ。ドラマや映画だったり、動画、自撮り……」
「一成さんも自撮りしたりする?」
くりくりと目を動かして、いたずらっぽく楓は尋ねた。
「俺? 俺はしないよ。SNS見たらわかるだろう?」
「つくしさんは文字ばっかり」
「そう、文字ばっかり。写真を撮るにも気力が必要なんだ」
「家と職場の往復しかしてないって書いてたこともあったね。忙しいんだなって思ってた。ねえ、忙しいってどんな感じなの?」
一成は虚を突かれた。
「どんなって言われても……。とにかく、やることがいっぱいで、ひとつ終わらせてもまたすぐ次のが来て、休む暇がなくて……家に着いた時には、疲れてぐったりしてるみたいな感じかな。お父さんは忙しくない人なの?」
「知らない」
「なんの仕事をしているのかな」
「車の整備。町で」
父親に話が及ぶと、楓の口数は極端に少なくなった。話したくないというのがありありと表れている。
一成は話題を変えた。
「楓君は、自撮りはしないの?」
「しない。自分で撮るなんて恥ずかしいもの」
この話題は失敗とまではいかないが、広がらなかった。
「ねえ、東京の話してよ」
楓がねだった。聞きたいのはそれだけらしい。
「東京の話かあ。ほら、楓君、前に原宿とか秋葉原とか行ったことあるかって訊いたね。どっちもいつ行っても人がすごくて、俺はもっとのんびりしたところが好きかな」
「東京って、のんびりしたところあるの?」
「もちろんあるよ。まあ、東京の中では比較的、みたいな言い方になっちゃうけどね。オフィス街もあれば下町もあって、あんな狭い土地なのにいろんなものが詰まってるんだ。そういう意味では、退屈はしないかもね」
「へえ、そうなんだ。いいなあ」
俺にはここの方が羨ましいよ――とは、一成ももう言わない。
「いつか東京に来られるといいね」
こんなことしか言えない自分がもどかしかった。
楓はもの言いたげにこちらを見た。一成は何も言わないでほしかった。何を言われても彼の期待には応えられそうになく、嘘やごまかしでやり過ごすには彼の傷は深過ぎるのだろうから。
「散歩でもする?」
一成の内心を知ってか知らずか、楓は言った。
「そうだね。あ、待って」
白志多にはほかに何があるのだろう。
一成はスマートフォンのマップアプリを開いた。現在地、九田町白志多。バス停に集会所、川、丘と山。山の麓には神社がある。土地神様だろう。
「この神社って、君の写真にはなかったね」
「古くて汚いんだよ」
楓は言い捨てた。これもまた、彼には禁忌の話題だろうか。
「今日は晴れてるから、川に行こう。ね、一成さん」
楓は一成の腕を引く。その顔つきは、昨日よりもやや臆病だった。
最初のコメントを投稿しよう!