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一成はまず川へ行ってみることにした。マップアプリで辿った限りでは、川は奥の山から流れ、バスの通った道へと続いている。いま歩いている道から少し左手に逸れていけば、間もなくだ。
その時、一成は足を止めた。川べりの土手に、濃いグレーのコートを着た後ろ姿がある。つやつやした黒い髪は風にあおられて乱れ、逆巻くようだった。
彼が振り返った。
「あ……」
声を上げたのはどちらだったのだろう。
きれいな子だった。ひどく整った顔立ちをしている。なめらかな肌が白く、眩しくて、赤い唇が印象的だった。それに、彼の瞳。透き通ったふたつの目が、まっすぐこちらを見つめていた。憂いを帯びて、深くきらめいていた。
歳の頃は十七、八といったところだろうか。少年と呼ぶにも青年と呼ぶにもためらう年頃だが、少年ということにしておこう。
「あ、あの、こんにちは」
一成はどぎまぎしながら挨拶した。
少年はにっこり笑う。
「こんにちは」
挨拶を返されたのは、白志多に来てから初めてである。たったそれだけのことが、一成には力が抜けるほど嬉しかった。
改めて見ても実に美しい子だった。都会にいたら雑誌のモデルくらいにはなれるのではないだろうか。伏し目がちな目元にどことなく色気があって、一成の胸も妙に騒ぐ。女を――というよりは、男を魅了するような色気だ。
「どなたですか?」
少年は邪気なく小首を傾げた。
一成は頭をかく。
「ええと……。初めまして。鈴原一成といいます。東京から来ました」
「東京から? こんなところに?」
彼は目を丸くしている。
この子からはまともに返事が返ってくる。一成は安堵した。
「ええ。人を捜しているんです。ちょっとこの画像を見てもらえますか?」
一成が示したスマートフォンの画面を、少年は何も疑わずに覗き込んできた。
画面に表示されているのは、かえでの投稿からダウンロードした川の写真であった。
「これ……」
「この川ってここで合ってますよね? 撮影した人を捜しているんです。白志多に住んでいると聞いてきたんですが……」
そこで一成は少年の様子に気づいた。食い入るようにこちらを見ている。
「あの……?」
疑問を浮かべた一成に、少年は言った。
「すごい。こんなことが起きるなんて」
「えっ?」
次の瞬間、一成は後ろに倒れそうになってしまった。少年が飛びついてきたのだ。
「僕のために来てくれたんだね。ありがとう!」
「えっ? えっ、あの……」
どうにか倒れずには済んだ。少年は細くて軽い。それに、なんだかとても……なんといったらいいのか……甘い香りがする。蠱惑的といってもいいような。
一成はうろたえた。反射的に抱き返しそうになってしまったが、なぜだかそれはよくない気がした。しかし見ず知らずの男に突然抱きつくとは、この子も普通ではない。
少年は興奮していた。
「つくしさんだよね? つくしさんでしょう?」
一成は目を剥いた。
「それじゃあ、君がかえでなのか?」
「うん、そう! 花川楓っていうんだ。その写真は僕が撮ったんだよ」
本名が楓か。それで「かえで」――言われてみれば単純極まりない。この純真そうな、それでいて遠慮のない少年が、捜し求めたかえでだったのだ。
「僕のために来てくれたんでしょう? 来てくれてありがとう。本当にありがとう」
楓は先刻も同じことを言った。事実はその通りだが、どこか引っかかる台詞だった。まるで一成がここに来ることを前から望んでいたかのような。
「楓さん」
一成は彼の身体を離した。
「楓でいいよ。つくしさんは……ええと、一成さんだっけ」
いきなり名前で呼び合うのか。これも驚きだった。
一成は軽く咳払いする。
「楓――君。どうして急にSNSを辞めたんだ?」
楓は悲しそうに眉を歪める。
「僕は辞めたくなかったんだよ。だけどスマホ返せっていうから、中身詳しく見られる前に全部消しておかないと危ないかもって思って、慌てて消したんだ」
それで連絡もなかったのか。しかし、妙だ。
「スマホ返せって、誰に?」
「お母さん。SNSやってるのがバレちゃったんだ。そういうのはやらないって約束でスマホ買ってもらったから、しょうがないよね」
「ああ……。親御さんは厳しいんだな」
「うん、まあね。スマホ持つこと自体反対されてたんだ。でも、僕、どうしてもスマホって使ってみたくて」
楓は肩を落とした。
「あれ、たぶんもう解約されちゃったんだろうな。僕が撮った写真も、全部消えちゃった」
SNSをやったくらいで解約とは、いささか厳し過ぎやしないだろうか。SNSから犯罪に巻き込まれるのを懸念する気持ちは、わからなくもないが。
一成はかえでとのやり取りを思い出した。
――学生さんですか?
――いいえ。
「君は働いているの?」
一成はなるべく控えめに尋ねた。
「ううん。なんで?」
楓はきょとんとしている。
彼は学生でもなく、働いてもいない。つまり無職だ。
「その……、たとえばアルバイトでも、自分でスマホ契約できるんじゃないかな。未成年だと親の承諾が必要かもしれないけど」
「そうか。そうだね。アルバイトかあ、いいね」
楓は明るく顔を輝かせたが、一成は心配になってくる。アルバイトかあ、いいね――その言い草だと、彼は一度も働いたことがないのだろう。
「君はいくつ?」
「十八」
「去年高校を卒業したのかな?」
楓はにこにこしていたが、問いには答えなかった。
「一成さん、質問してばっかりだね。僕からも訊いていい?」
「ああ、いいよ。何?」
「東京ってどんなところ? 原宿とか、秋葉原とか、行ったことある?」
一成は苦笑いした。
「うん、まあ、あるよ。どんなところっていっても、そうだな……テレビやSNSで見たことない?」
「あるけど、そういうのと同じなのかなって思って」
「うーん」
どんなところと訊かれても、答えづらいのが東京という街だった。
「まあ、大体同じじゃないかな。人が多くて、物が多くて、ごちゃごちゃしてて、毎日いろんなことが起こってる」
「へえ、いいなあ、面白そう。一成さんはどんなお仕事してるの?」
「俺は普通のサラリーマンだよ。このところ忙しくて、ちょっと参ってたんだ。そんな時に楓君の写真を見つけて、すごく癒されたよ」
「本当?」
「うん、本当」
彼は嬉しそうに目尻を下げた。
「東京にはずっと住んでるの? おうちはどんなところ?」
「住んで十年くらいだね。普通のマンションだよ」
「何部屋ある?」
「何部屋って……」
そんなことが気になるものだろうか?
「ええと、寝室と、ダイニングキッチンと……」
「広い?」
「いや、普通だよ。ひとり暮らしだし、そんな広さは必要ないから」
「そうなんだ。いいなあ、東京」
都会への無垢な憧れが、一成にめまいを起こさせる。いかに田舎の育ちとはいえ、今時珍しいともいえるくらいだった。
「俺にはここの方が羨ましいよ。景色はいいし、空気は澄んでるし」
なにげない感想だった。特にこれといった意図などなかったのだ。
だが、楓の顔からは表情が消えた。彼はついと目をそらすと、小さく呟いた。
「僕はここが嫌い」
「あ……。ごめん、そんなつもりじゃなかった。住んでるといろいろあるよね」
「ううん、いいんだ。あ、でも、景色は本当にいいと思うよ。きれいなところいっぱいあるよ」
景色は、と、楓は言った。かけらも愛想のない町内の人々を思い起こすと、かえでの投稿が風景写真ばかりだったのもなんとなく理由が想像ができるようだ。
「ここの人は、みんなああなの?」
言ってしまった。
楓が瞬きする。
「ああって?」
「話しかけても無視されたり、帰れって言われたり」
「そんなこと言われたんだ。ふうん。みんなよそから来る人が嫌いなんだよ。結婚するのもできるだけ白志多の人間にしろって言われるみたい。ここ、いろいろあるから」
「でも、人口は減ってるんじゃないのか? 白志多の人間と結婚しろって言われても、釣り合う相手がなかなかいないんじゃ……」
「うん。そうみたい。子どもなんてもう、何人かしかいない……」
楓は遠く、集落の家々を見据えている。風光明媚だが不便な故郷を捨て、人は町へ、街へと流れ出ていく。白志多は今後も過疎化が続くだろう。一成のふるさとも同じだった。
「十年後か、二十年後には、もう子どもはいないかもしれないね。そうしたらもう、――もなくなるのかな」
楓が呟いた。
一成にはその言葉が聞き取れなかった。なくなる。何が? 何がなくなる?
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