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楓は通りをバス停の方に戻っている。位置関係でいえば、この本道の山側から楓の家、例の蔵、集会場、バス停という並びだ。川は本道に沿って流れ、土手脇におじいちゃんの木の丘がある。
蔵と集会所の中間で、楓は道を逸れた。見覚えのある、大きな平屋が建っている。
縁側に明かりが漏れ、醤油か、だし汁かの香ばしい匂いが漂っていた。この家は夕食の最中だろうか。
楓は正面に回り、一成の手を離した。それから呼び鈴を押した。
出てきたのはあの男である。
――集会所は開けないし誰も泊めない。夕方にバスが来るから、それで帰れ。
集会所を開けてくれないかと尋ねた一成に対し、冷たく突き放した中年の男だ。男は楓と一成を見比べ、ふんと鼻を鳴らした。
「どうした」
問うた相手は楓である。この男も、一成の存在はないことにしたらしい。
楓は母親にしたのと同じ説明を繰り返す。
「この人、白志多の写真を撮りにきたんだ。うちに泊めてあげたいの。お母さんに言って、泊めてやれって」
男はじろりと楓をねめつけた。
「お前の母さんはなんて言ってる」
「だめだって。帰ってもらえって」
「そりゃあそうだ。母さんが正しい。よその人間はよそに帰れ」
最後の言葉だけは、一成に向けられていた。
この男はいったいなんなのだろう。楓がわざわざ頼みにきたということは、集落の顔役か何かだろうか。
玄関先には男のものであろう大きな靴と、女物の靴、それに男のものより少し小さめのスニーカーが並んでいた。家族が奥にいるのだ。
楓は男に詰め寄る。
「ねえ、お願い。僕、この人ともっとお話ししてみたいんだよ。写真も見たいの。だから泊めてあげたい。お母さんに言って、許してやれって。僕の言う通りにしてやれって言ってよ。なんでもするから」
すると男がぴくりと頬を動かした。
「そうか。お前、そんなにか」
楓は頷いた。
「お願い。お願いします。本当に、なんでもするから」
なんだ、これは。媚びを売るような楓の懇願に、完全に上から見下している男。なんとも言えない、まとわりつくような嫌な雰囲気だった。
といっても、自分の知らない間柄にそう簡単にものは言えない。不愉快ながらも、一成は口を閉ざしていた。
男が口角を上げた。
「仕方ないな。いま電話してやるから、ちょっと待っとけ」
「本当? やった! 道源さん、ありがとう! よかったね、一成さん。これで僕のうちに泊まれるよ」
「え……ああ……うん……」
わけがわからない。一成は居間へと下がる男の背中を見送っている。
電話も長くはかからず、数分後に男は戻ってきた。
「家に帰って母さんを手伝うんだな。手間も暇もひとり分増えたんだから、頭に来るだろ」
「お母さんが怒ったって、僕知らないよ。どうでもいいもの」
「親不孝なガキだ」
あからさまな蔑みに、楓はちらと不機嫌な目を向けた。が、言い返しはせず、身体ごとこちらを向いた。
「行こう、一成さん」
「後でな」
男の声が背中に投げつけられた。
ふたりは来た道を戻る。往路とは違い、ゆっくりした足取りだった。楓は、である。一成にしてみれば、助かったともいえ、厄介なことになったともいえ、複雑だった。
疑問は多い。
「楓君、いまの人はなんだったの?」
「それは後で話そうよ。それより、ねえ、見て、空」
東から薄闇が迫り、藍色から紫、茜色にグラデーションを作っている。見渡す限りの空に、幻想的な色彩が広がっていた。ビルに囲まれた東京の狭い空では、こんな光景にはまずお目にかかれない。
一成は楓の横顔を盗み見る。空を見上げるなめらかな頬からは、楽しげな様子だけが立っていた。
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