第三章 僕のうちに来て

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 楓は通りをバス停の方に戻っている。位置関係でいえば、この本道の山側から楓の家、例の蔵、集会場、バス停という並びだ。川は本道に沿って流れ、土手脇におじいちゃんの木の丘がある。  蔵と集会所の中間で、楓は道を逸れた。見覚えのある、大きな平屋が建っている。  縁側に明かりが漏れ、醤油か、だし汁かの香ばしい匂いが漂っていた。この家は夕食の最中だろうか。  楓は正面に回り、一成の手を離した。それから呼び鈴を押した。  出てきたのはあの男である。  ――集会所は開けないし誰も泊めない。夕方にバスが来るから、それで帰れ。  集会所を開けてくれないかと尋ねた一成に対し、冷たく突き放した中年の男だ。男は楓と一成を見比べ、ふんと鼻を鳴らした。 「どうした」  問うた相手は楓である。この男も、一成の存在はないことにしたらしい。  楓は母親にしたのと同じ説明を繰り返す。 「この人、白志多の写真を撮りにきたんだ。うちに泊めてあげたいの。お母さんに言って、泊めてやれって」  男はじろりと楓をねめつけた。 「お前の母さんはなんて言ってる」 「だめだって。帰ってもらえって」 「そりゃあそうだ。母さんが正しい。よその人間はよそに帰れ」  最後の言葉だけは、一成に向けられていた。  この男はいったいなんなのだろう。楓がわざわざ頼みにきたということは、集落の顔役か何かだろうか。  玄関先には男のものであろう大きな靴と、女物の靴、それに男のものより少し小さめのスニーカーが並んでいた。家族が奥にいるのだ。  楓は男に詰め寄る。 「ねえ、お願い。僕、この人ともっとお話ししてみたいんだよ。写真も見たいの。だから泊めてあげたい。お母さんに言って、許してやれって。僕の言う通りにしてやれって言ってよ。なんでもするから」  すると男がぴくりと頬を動かした。 「そうか。お前、そんなにか」  楓は頷いた。 「お願い。お願いします。本当に、なんでもするから」  なんだ、これは。媚びを売るような楓の懇願に、完全に上から見下している男。なんとも言えない、まとわりつくような嫌な雰囲気だった。  といっても、自分の知らない間柄にそう簡単にものは言えない。不愉快ながらも、一成は口を閉ざしていた。  男が口角を上げた。 「仕方ないな。いま電話してやるから、ちょっと待っとけ」 「本当? やった! 道源(どうげん)さん、ありがとう! よかったね、一成さん。これで僕のうちに泊まれるよ」 「え……ああ……うん……」  わけがわからない。一成は居間へと下がる男の背中を見送っている。  電話も長くはかからず、数分後に男は戻ってきた。 「家に帰って母さんを手伝うんだな。手間も暇もひとり分増えたんだから、頭に来るだろ」 「お母さんが怒ったって、僕知らないよ。どうでもいいもの」 「親不孝なガキだ」  あからさまな蔑みに、楓はちらと不機嫌な目を向けた。が、言い返しはせず、身体ごとこちらを向いた。 「行こう、一成さん」 「後でな」  男の声が背中に投げつけられた。  ふたりは来た道を戻る。往路とは違い、ゆっくりした足取りだった。楓は、である。一成にしてみれば、助かったともいえ、厄介なことになったともいえ、複雑だった。  疑問は多い。 「楓君、いまの人はなんだったの?」 「それは後で話そうよ。それより、ねえ、見て、空」  東から薄闇が迫り、藍色から紫、茜色にグラデーションを作っている。見渡す限りの空に、幻想的な色彩が広がっていた。ビルに囲まれた東京の狭い空では、こんな光景にはまずお目にかかれない。  一成は楓の横顔を盗み見る。空を見上げるなめらかな頬からは、楽しげな様子だけが立っていた。
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