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楓の自宅に帰ると、食事の支度ができていた。父親は既に食卓についており、隣に母親のものらしき席、その向かいにおそらく楓で、楓の隣にもうひと揃え料理が並んでいる。
――俺の席か。
ということは、楓の母親はあの男に言われるまま受け入れたのだ。息子の言い分には耳を貸さなかったのに。
楓は嬉しそうだった。
「一成さん、お腹空いてるでしょう? 食べよう」
「無理を言ってすみません。ありがとうございます」
頭を垂れた一成に、楓の母親も父親も無反応だった。必要なものは用意してやるが、親しくするまでの義理はないといったところだろうか。
白米と味噌汁、豚のしょうが焼きに付け合わせのキャベツ、わかめときゅうりの酢の物と、ごく普通の夕食だった。一成は折り目正しく完食し、返答はないだろうと思いながらも楓の母親に礼を言った。
「美味しかったです。ごちそうさまでした」
楓の父親はソファに戻ったが、一成はそちらには行きたくない。自分は楓の客だ。息子を無視するような父親が、息子の客に友好的になるはずもない。それで、一成はテーブル脇に立って台所を眺めていた。より正確には、台所に立つ楓を。
「僕、何したらいい?」
楓は母親の後ろをついて回る。
「いいからあっち行って。座ってなさい」
母親はにべもない。
どうでもいいと言った割に、楓は道源に言われた通り母親を手伝おうとしているようだ。しかしうろうろするばかりで、どう見ても邪魔だった。きっと普段はなんの手伝いもしていないのだろう。
「もう、向こうに行ってったら。そんなに手伝いがしたいならお風呂沸かしなさい。その間に布団敷いて」
「はぁい」
楓は浴室に走っていった。二分も置かずに帰ってきて、一成の手に触れる。
「ねえ、一成さんも手伝ってよ。僕ひとりじゃ落としちゃう」
「ああ、うん」
一成は楓とともに階段を上がった。二階は二部屋と収納があるようだ。
楓は奥の部屋を開けた。ベッドと机、本棚。それだけだ。本棚に並んでいるのは児童書や図鑑など、子ども向け図書の類いである。それを十八の少年が好んでいるとは考えづらく、つまりこの部屋は持ち主が小学生の頃から本が増えていないのではあるまいか。
衣類はクローゼットの中だろう。シーツや布団カバー、カーテンは揃ってシンプルな水色だ。ほかに趣味を窺わせるようなものはない。
「ここに布団敷くね」
楓はベッドの隣を指した。
「ここ? 楓君と同じ部屋で寝るの?」
「うん。だって、うち、ほかに部屋ないし。リビングで寝るのも嫌でしょう?」
泊めてもらう身で、どこは嫌だなどとは言えない。が、リビングと楓の部屋と、どちらがいいかと問われるとそれも迷う。
嫌でしょう? ――という言葉は、意思の確認ではなかった。楓は扉を開けたまま収納スペースに向かい、敷布団を引っ張り出してきた。なんといっても細い少年なので、足取りがよたよたと危なっかしい。
一成も慌てて駆けつけた。
「俺が持つよ」
「ありがとう。助かる。じゃあ、僕は毛布取ってくるね」
そうして寝具を部屋に運び込み、寝床を整えた。一成をそこに待たせて、楓は階下に降りていった。そっと聞き耳を立てると母親と話している声が聞こえてきた。
「お風呂、一成さんが最初でいいよね」
「いいから、沸くまで上にいなさい」
楓が戻ってきた。
「十分くらいでお風呂が沸くよ。ねえ、今日の写真見せて」
「ああ、ええと……」
床はほとんど布団に占領されてしまい、座れる場所がない。楓は自分のベッドに腰を下ろしている。一成は布団に胡坐をかいた。
写真フォルダを開き、スマートフォンを楓に渡す。
「どうかな。上手く撮れてるといいんだけど」
「大丈夫だよ。ねえ、今日、楽しかったよね。写真いっぱい撮ったし」
「そうだね。ああ、そういえば、川のほかにも楓君が撮った写真を残してあるんだよ。ほら、こっちのフォルダ」
一成が横から操作して見せると、楓は歓声を上げた。
「本当だ! 僕の撮ったやつ!」
自分の撮った写真を見終わったら、楓はまた元の写真フォルダに戻ったらしい。
その一方で、一成はどうしてもひっかかる。
「楓君、訊いてもいいかな。さっきの人、あれはどういう人?」
「さっきの人って?」
楓は画面から目を離さない。ごまかしているのか、それとも本当に忘れてしまったのか。彼の場合、判断が難しかった。
「ほら、道源さんだっけ」
「ああ、あの人ね。えらい人だよ」
そっけない答えだった。
「えらい人って、町内会長さん? それとも名主とか、古い家柄の人とか、そういう感じ?」
「知らない」
知らないのに、「えらい人」か。
蔵について訊いた時と似ている。この「知らない」は事実としての「知らない」ではなく、「答えたくない」かもしれない。これ以上訊くな――そんな気配を感じる。
あの蔵。一成は先程、蔵も写真に収めた。
にこにこしながら画面を見ていた楓が、不意に顔を凍りつかせた。信じられないというように一成を見る。
「蔵、撮ったんだ」
「うん、まあ、記念に」
「お化けが来るから消すね」
「えっ? お化け?」
楓はスマートフォンを返してきた。確認すると、あの蔵の写真がない。削除されてしまったのだ。
「楓君、お化けって何?」
「知らない」
まただ。都合の悪いことを訊くと「知らない」。
階下から楓の母親が呼んでいる。風呂が沸いたという。
「行こう、一成さん」
楓が立ち上がった。
「本当に泊まってよかったの? お父さんもお母さんも困ってたんじゃない?」
「いいんだよ、そんなの。一成さんは何も気にしないで。普通にくつろいでて」
「だけど、俺は本当に別のところに泊まったってよかったんだよ。明日また来れば……」
「本当に明日も来るの? 出ていったらもう戻ってこないんじゃないの?」
楓が鋭く切り込んだ。
一成は口ごもる。改めて問い質されると、現実にどうしていたかは自分でもわからない。もし明日違う場所で目覚めていたら、そのまま東京に帰っていただろうか?
この集落は何か底知れない。明日も来たに決まってるよ――とは、言えなかった。
「ほらね。そう思ったから、だめって言ったんだ」
楓は吐き捨てるように言った。
「この郷には外の人は来ないんだよ。もし来てもみんなあんな態度だから、誰も二度と来ない。僕もこんなところ大嫌いだ。いいのは景色だけ。みんな死んじゃえばいいのに」
「言い過ぎだよ、楓君」
大人として一応は諫めねばならないと思ったから、一成はそうした。
楓は目をそらす。
「下に行こうよ。お風呂だよ」
一階では楓の母親が待っていた。
「楓が先に入りなさい。道源さんからさっき連絡があったわよ」
ふと、波が引くように、楓が冷えた。
「……そう。わかった。一成さん、ごめんね。ちょっと待ってて」
楓が風呂を使っている間、一成は居間で待っていた。だが、落ち着かない。楓の父親は相も変わらずソファでテレビを見、母親は台所で作業をしている。奇妙なのは、夫婦の間にも会話がないという点だ。
一成は父親と母親を交互に窺い、最終的には母親の方に話しかけた。
「あの、すみません。道源さんという方は、どういった方なんですか?」
「お客さんには関係ないことですよ」
楓の母親は顔も見ずに答えた。無視されなかっただけましと思うべきだろう。
それから二十分足らず、楓が上がってきた。髪が乾いている。乾かしてきたのではなく、洗っていないようだ。
「早いね。もういいの?」
「うん。僕、後でもう一回入るから。ちょっと出かけなきゃいけないんだ」
「えっ? いまから?」
「僕のことは気にしないで。先に寝てていいから」
楓は無表情だった。横顔がこれ以上の詮索を拒否していた。
けれど、一成は言わずにはいられない。
「大丈夫か?」
楓はやっと、かすかながらも口元を緩めた。
「大丈夫。なんでもないよ」
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