第五章 信じたの?

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第五章 信じたの?

 楓の家から川へ行くには、白志多の本道を渡って行かなければならない。横断歩道は数メートル歩いた先にしかなく、誰もわざわざそこまで行かないのだそうだ。住民の車がごくたまに通るのを別とすれば、全く静かである。田舎道は車よりも動物が多い――などという揶揄(やゆ)もあるが、ここ白志多ではそれもさもありなんだった。  それでも一応は左右の確認をして、一成はふと目を留めた。古くなった、大きな平屋の一戸建て。その庭に、人影がある。  道源だ。  このまま真っ直ぐ渡れば、道源の前を通ることもない。それでいいはずだった。昨夜あの男にひどい目に遭わされたのならば、楓は会いたくはないだろう。  ――なんでもないよ。  ――さあね……。  楓がそう言うのは、忘れようとしているのかもしれない。であるならば、なおのこと会わせるべきではない。  が、楓に会わせるべきではないということと、一成が会うべきではないということとは、また別の話だ。一成の腹の底で、義憤のようなものが煮え立ってくる。  あの男、とても許せるものではない。 「楓君、先に川に行っていてもらえるかな。俺はちょっと忘れものをしちゃったから、取ってくるよ」 「そう? いいけど、道わかる?」 「わかるよ。大丈夫」  家では素直に川に向かった。  一成は道を折れ、道源の家に向かった。朝方は閉め出されたが、庭に出ているいまならばそういうわけにもいくまい。自分にしては珍しく、頭に血が上っていた。 「道源さんでしたよね。すみませんが、少しお話しよろしいですか」  庭先で、一成は切り出した。  最初に出会った時と同じく、道源は庭に水を打っていたようだ。ホースを手にしている。 「なんの用だ」  水も止めずに、道源は言った。 「出かけてらしたんですよね? いつお戻りでしたか?」 「それがあんたに関係あるのか?」  楓と違い、道源は血色もよく、たっぷり寝た様子だ。 「楓君は明け方に戻ってきました」  一成は言った。道源は顎を軽く上げただけだった。 「昨夜、あなたは彼を呼び出しましたよね? ひと晩中どこにいたんです? 彼に何をしたんですか?」 「楓が何か言ったのか?」  ふてぶてしい男だ。悪いことをしたとは毛ほども考えていないらしい。一成は奥歯を噛みしめた。 「いいえ、楓君は何も話そうとしません。話せないんじゃないですか?」 「話せない? ああ、そうか。そうかもしれんな」 「その他人事みたいな言い方はなんなんですか? あなたがしたことでしょう! あの首の痕はなんなんです? それに、手首も。十八歳の子にそんなことをして恥ずかしくないんですか!」 「あんたが口出しすることじゃあない」  白志多の人間はみな、白志多のことによその人間が口を出すなと言う。事情を知らない奴が騒ぐなというのはわからなくもないが、もし楓が強姦されたのだとしたら犯罪ではないか。何が「口を出すな」だ。 「あの子に何をしたんですか」  問い詰める一成だったが、道源はにやりと笑った。 「あの子(・・・)ねえ。へーえ、随分仲よくなったんだな」  下卑た笑いだった。一成は不愉快になる。 「下世話な勘繰りはやめてください。楓君には世話になっていますし、友人だと思っているので……」 「どんな世話になってるもんだか」  道源の持つホースから水飛沫が上がった。  一成は怒りに身を震わせる。 「それはどういう意味ですか?」 「別に」  道源の口元は嫌な形に歪んだままだ。 「道源さん、あなたは楓君を――」  しかし一成がさらに詰問しようとした時、後ろから腕を引かれた。振り返ると楓がいる。青ざめて、どこか怯えたような目つきで道源を窺っていた。 「一成さん、やめて」 「楓君。これは、その。はっきりさせておいた方がいいかと……」 「なんでもないから、もういいから、行こうよ。夜になっちゃうよ」 「まだ昼を過ぎたばかりだよ」  ここまで来たら一成もいまさら退けない。楓の手をそっと払い、道源に向けて一歩踏み出した。 「警察を呼びますよ」  道源は一成ではなく楓を見る。 「警察を呼ぶようなことが、何かあったか?」  楓は無言だった。かすかに首を横に振る。表情が硬い。 「だったらもういいだろう。さっさと行け」  道源は水撒きを再開する。この男が手入れしているのか、枝ぶりのいい梅は花も綻び始めていた。ほかに鉢植えが並び、季節になれば様々な花を咲かせるのだろうと思われた。  十八の少年を蹂躙(じゅうりん)しておいて、平然と植物の世話か。こんな外道に世話されていても、花は変わらずに美しい姿を見せるのか。  不条理だ。 「一成さん、行こう」  楓が促す。拳が小刻みにわなないている。それを目にすると、一成も強くは言えない。  道源が、やっと水を止めた。 「楓。お前は昔から反抗的だったよな。最初は暴れて暴れて大変だった。昨日は珍しくなんでもするなんてしおらしいことを言うからどうしたかと思えば、やっぱりこういうことか」  楓の表情が変わる。 「こういうことって、何?」 「そいつが気に入ったんだろう」 「だから何? いけないの?」  楓は否定しなかった。この「だから何?」という開き直りも、白志多では何度聞いたかわからない。みながみな口を出すなと言い、だからどうした、それがなんだと開き直ってみせる。  道源は耳障りに笑った。 「いいや。好きにすればいい。どうせじき春なんだからな」  ――春?  そういえば楓は、SNSでこう言っていた――春を待っている、と。春には何があるのだろう。  が、それを問い質す前に道源が動いた。この男は一成にこう言ったのである。 「どうしようもないガキだが、よろしく頼むよ」 「それはどういう意味ですか?」 「別に、言葉通りの意味だ。どうしても言うことを聞かなくなったら、暗いところに閉じ込めればいい」 「なんですって?」  道源はまたぞろにやにや笑いを浮かべている。 「あんた、蔵を見たか?」 「蔵?」  おじいちゃんの木の丘から見下ろした、あの蔵のことだろうか。 「見ましたが、それが何か?」  無意識のうちに、一成も白志多の人々に(なら)っていた。 「小さな蔵でな、六畳か、せいぜい八畳くらいの広さしかない。隅の床にこう、戸がついてるんだよ。わかるか、こうやって開く戸だ」  道源は手で持ち上げるような仕草をする。  床下に設けられた点検口や収納庫に、持ち上げるタイプ、または引いて起こすタイプの戸がついていることがある。道源の動作から、一成はそうした戸を想像した。 「戸の下は地下室だ。便所があるほかはなんにもない。もちろん、明かりもな。白志多ではな、昔から、言うことを聞かないガキはそこに落として閉じ込めるんだ。なんの光も射さない暗い中に数時間もいりゃあ、どんな悪ガキでもしおらしくなる」 「僕はもうそんなの怖くない」  楓が言った。  これは本当の話なのか? それとも単なる脅しか? 「虐待ですよ」  一成はそれだけを言った。失敗したと思い始めていた。楓とこの男を会わせたくなかったのに、すべて裏目に出てしまった。楓が心配だった。 「この頃じゃあなんでも虐待になる。俺なんざ親父に殴られて、それで道理を覚えたもんだがね」  道源が言った。  家の中から、道源の息子がこちらを見ている。あの子も殴られて育ったのだろうか。自分の父親が、自分と似た年頃の少年を犯したかもしれないなどと知ったら、どう思うだろう。 「一成さん、行こう」 「ああ……」  道源に別れは告げなかった。あの男もそれを求めてはいないだろう。  足取りは重い。一成はいつしか立ち止まっていた。  道の向こうに、蔵がある。 「さっきの話は本当なのか? あの蔵に、地下室があるって」  楓は力なく受け流した。 「一成さん、あんなの信じたの? くだらないよ」 「じゃあ、嘘なんだね? あそこには地下室はないし、楓君も閉じ込められたりなんてしたこともない」 「信じないでいいよ。普通の子はあんな蔵、入ったこともないんだから」  そうなのか、よかった――と言える雰囲気ではなかった。  楓は、「嘘だ」とは言っていない。「信じるな」と言っているだけだ。また、「普通の子は」とは、「普通ではない子もいる」とも取れる言い方だ。その反応を見ていると、どうしてもこう思わざるを得ない。すなわち、確かにあの蔵には地下室があり、楓はそこに閉じ込められたことがある。彼があの蔵から顔を背けるのも、道源が「閉じ込めろ」と言うのも、そういうわけだ。経験があるからなのだ。それで筋が通る。  そして――。 「楓君、昨夜、もしかして……あの蔵にいたのか?」  楓は一成に背を向けた。 「もう行こうよ。僕、川が見たい」  その背中が、これ以上話したくないと言っている。  当事者でもないのに無神経だった。一成は深く恥じ入る。普段淡白なくせに、たまに感情的になるからこんなことになるのだ。 「ごめん。俺が悪かった」  楓は困ったように微笑んだ。彼らしからぬ、おとなびた笑みだった。 「いいよ。大丈夫。なんでもないから」
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