第三章 僕のうちに来て

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第三章 僕のうちに来て

「ねえ、かかし君も撮りにいこうよ」  楓が言った。  一成は辟易し始めている。楓曰くの「おじいちゃんの木」で撮影してからこれまで、ここを撮ろうあそこを撮ろうと振り回されっ放しだった。写真自体は別に構わない。が、気になるのは時刻である。そろそろ陽が傾きかけていた。 「悪いけど、それはまた今度にしよう。俺はもう行かないと」  楓が顔色を変えた。 「行く? 行くって、どこに?」  その変化に、一成は驚いた。 「どこって、町に戻るんだよ」 「そんなのだめだよ! 僕を置いていかないで!」  楓は一成の腕にすがりついた。白くなるほど力んだ指先が、腕に食い込んでくる。 「楓君、ちょっと、痛いよ」  抗議したが、彼は聞いていないようだ。 「なんで、なんで戻るなんて言うの。せっかく来てくれたのに、なんで僕を置いていこうとするの?」  言っている内容は子どものようだったが、表情は異様だった。双眸がぎらぎら光っている。左手の、半分噛み切られた爪が目に入り、一成はぞっとした。 「あのね、別に、置いていこうとしているわけじゃなくて。ほら、ここにはホテルも何もないだろう? 集会所は開けないっていうし、どこか泊まれる場所を探さないといけないんだ」  町に戻ったとしても、泊まれる場所があるかどうか疑問だが。一成は閉鎖されたホテルや、いつまでも電話の繋がらない旅館を思い、暗澹(あんたん)とする。  野宿は御免だ。関東の三月とはいえ夜はまだ肌寒く、外で一夜を明かすのは可能な限り避けたかった。  楓は勢いよく両手を打ち合わせた。 「そうだ! だったら、僕のうちに来なよ。泊めてもらえるようにお願いするから。ね、ほら、来て!」  腕を引かれた。後ろ姿が走り出す。  一成は困惑している。楓の家に? それは助かることは助かるが、やはり困る。集会所ならばまだしも、一般住宅にいきなり泊めてくれと頼めるほど図々しくはないつもりだ。  が、一成は楓をふりほどけない。年齢にそぐわない幼い様子や、時折見せる不気味さ……いまも、町に戻ると言ったとたん豹変した。何が彼をこうさせているのかが気にかかる。それに、「置いていかないで」とはなんだ。どうしてそんな言い方をする?  ――もし振りきって行こうとしたら、追いかけてくるんじゃないか。  そうも思える。はっきり言ってしまえば、うすら寒いものを感じるのだ。  迷っているうちに、ある家の前に出た。集落の様子から想像していたほどには、古くはない。こぢんまりとした、二階建ての一軒家だった。  楓が玄関を開ける。鍵はかかっていないようだ。 「お母さん!」  大きな声で呼ばわりながら、楓は靴を脱いだ。手を繋いだままだった一成も仕方なく靴を脱ぎ、三和土(たたき)を上がった。  楓の母親は台所で食事の支度をしていた。居間に入ってきた見知らぬ男に、怪訝そうな目を向ける。最初は顔に、それから、息子と繋がった手に。 「楓。何してるの」  不快そうに、楓の母親が咎めた。手に持った包丁が生々しくぬめっている。 「お母さん、この人、鈴原一成さん。白志多の写真を撮りにきたの。泊まるところがなくて困ってるんだよ。うちに泊めてあげて」  ――白志多の写真?  一成は内心眉をひそめた。確かに写真は撮ったが、それが目的ではない。楓は嘘をついた。母親には、一成が楓を捜しにきたのだということは知られたくないようだ。  事情はともかくとして、一成は気後れしつつも頭を下げた。再び上げた時には、楓の母親はさらに表情を険しくしていた。 「何言ってるの? そんなのいいわけないでしょう。帰ってもらいなさい」  彼女は息子としか話していない。一成の存在を認識していることは確かなのに、そこに誰もいないかのように振る舞っていた。  が、母親の態度はまだ理解ができる。どこの馬の骨とも知れない男を息子が突然連れてきたら、それは怪しんで当然だろう。それでなくとも厳しい親のようだし、無視されるのもわからないではない。  わからないのは、父親だ。楓の父親が、ソファに座っている。すぐ傍で騒ぎが起こっているのに、素知らぬふりでコーヒーを飲んでいる。息子の援護もしなければ、妻に同意もしない。全くの我関せずで、楓の方も父親には構いもしない。その居住まいを見ていると、もしやこの男は他人なのではとさえ思えてくる。楓の実父ではなく、母親の再婚相手か、あるいは恋人ではないかと。  楓は父親にも母親にもあまり似ていなかった。こういってはなんだが、どちらも平凡な顔立ちなのだ。目を引く容貌の楓とは、だいぶ違う。  その楓は、明らかに度を失いつつあった。 「なんで! 別にいいじゃないか! 泊めてあげてよ!」 「だめって言ってるでしょう。知らない人を家に泊めるなんてできるわけありません」 「知らない人じゃないよ。僕は知ってるもの」 「ばかなこと言わないで。いいから帰ってもらいなさい」  楓は声を荒げた。 「やだよ! 一成さんはうちに泊まるんだ!」  息子に呼応して、母親の声も高くなる。 「だめよ! うちには誰も泊めません! いい加減にしなさい、楓!」  妻と息子が怒鳴り合う事態にまで至っても、楓の父親は黙ってソファに座っている。  一成の方が見るに見かねてしまった。楓の肩を小さく叩き、自分の方を向かせる。 「ご迷惑だろうし、いいよ。休みはまだあるし、明日また来ればいいんだから」  しかし楓は納得しなかった。 「だめだよ、そんなの。行っちゃだめ」 「うちには泊めないわよ」  後ろから母親が割り込んできた。楓は彼女を睨みつける。その目つきは、心底憎い相手に向けるような激しいものだった。  殺意まで含まれているかのような。  楓の拳がきつく握られて、震えていた。いまにも母親に殴りかかるのではないかとすら思われた。  一成は寒気を覚え、楓を止める。 「楓君、本当にいいから。バスの時間もあるし、俺はもう行くよ」 「だめ。絶対にだめ」  楓は低く言いきり、一成の腕を掴む手に力を込めた。 「行こう。なんとかするから」  一成には彼を止めることはできなかった。楓は玄関に駆け、外に飛び出した。後ろを行く一成も危うく裸足で飛び出してしまうところだった。どうにか靴に足を突っ込んだものの、踵がはみ出している。ともすれば転んでしまいそうだった。  楓はほとんど一成を引きずるようにして走っていく。  尾根があかね色に染まり、夕方のバスの刻限が迫っていた。いますぐバス停に向かわなければ、どのみち白志多で夜を過ごすことになるだろう。 「楓君、もう時間がないんだ。行かないと、バスが――」  が、一成はそこまでしか言えなかった。  振り向いた楓の瞳が、血走って燃えている。 「行っちゃだめ。僕を置いていかないで」  この時、何を言えばよかったのだろう。置いていくなんて大袈裟な、第一自分は単なる旅行者で、ほんのひとときをともにしただけだ――そう言おうとはしたが、実際には何ひとつ言葉が出てこなかった。  必死に一成を引き止める楓、一顧だにせず追い出そうとする彼の母親、どうするかを決めかねている自分。いびつなホームドラマでも見ている気分だった。  帰りたい。一成は痛切にそう思った。こんなことならば写真を撮ろうという楓に乗るのではなかった。そもそも白志多に来るのではなかった。SNSを辿ってこんなところまで来たのが、間違いだったように思えてならない。  ――僕を置いていかないで。  一成の胸でも、疑問が膨れ上がる。  ――なぜ君はそんなことを言うんだ? ここには何がある? お父さんの態度の理由はなんだ?
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