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翌日の朝は、清人にとってはこの上なく面倒な朝だった。新学期が始まったのだ。この二ヶ月近く、アルバイトがある日以外は昼過ぎまで寝ていた彼にとって、朝六時は早すぎる。
「こら!清人、起きな!」
月子の声が遠くから聞こえる。清人、と自分を呼ぶ姉の声がもう一度して彼はやっと目を覚ました。
「何だよ、まだ早いだろ」
もぞもぞと布団の中から文句を言うと、見えてはいないはずなのに月子の手が確実に清人の頭を叩いた。痛いと清人が恨めしそうに布団から顔を出す。すると「これ、帰りに買って来て」と月子はその額にメモを押し付けた。
「じゃ、よろしく」
慌ただしく去って行く姉の声をぼんやりとした頭で受け止め、清人はようやくゆるゆると布団を這い出した。
リビングの扉を開け、テーブルに座る。
一人には大きすぎるリビングテーブル。しんとした広い居間に、誰も見ていないテレビの音が響いていた。
なんとなしにテレビ画面の端に映る時間を確認する。
寝間着のまま用意された朝食を食べ、歯を磨いている頃、行くけど鍵忘れないでよと、毎朝同じセリフを残して月子が仕事の為に家を出た。
清人はとうに閉まった玄関に向かって、これまたいつものように、あぁ、と返事をする。そして、いってらっしゃいとも。
相手はとっくに居ないのだから、言っても仕方がないのだが、言わないと気持ちが悪い。食べ終わった食器をシンクに入れて、清人は自分の部屋へと仕度をしに戻った。
制服に腕を通して、髪型を整える。この制服というのは、清人みたいな面倒くさがりと、向井家のように困窮した家庭には、大層ありがたかった。 清人の生活の八割は、制服と寝間着で事足りる。
リビングの窓の鍵やコンセントの抜き忘れを確認して、家を出た。勿論、玄関も忘れない。清人は、あぁ、リュックが重い、なんてどうでもいい事を考えていると、後ろから肩を叩かれた。振り返ると、そこには彼女がいた。
「あんじ」
「おはよう、キヨ」
にこやかな笑顔は幼い頃から変わらない。咲元あんじは清人の家の隣に住む幼馴染みであり、付き合いだしたばかりの恋人でもあった。ふんわりとした短いボブ。
透き通るような白い肌はとても弱く、細く小さな彼女を清人と一巳は幼い頃から大事に扱ってきた。一巳というのは、向かいに住むもう一人の幼馴染みで、あんじの後ろに目をやれば、丁度玄関から出てきたところだった。
「大丈夫だった?」
あんじが心配そうに手を差し出してくる。その手の上には、カラフルな棒つきの飴が一つ乗っている。
清人はそれを受け取りにっこりと笑うと、彼女の手を握り締め、うんと首を縦に振った。そして、あんじの小さな手を確かに感じ、清人はほっと息をついた。
「おい、何を朝からまったりとしてるんだ。遅刻するぞ」
一巳が急かしてくる。それもその筈だ、清人達が住む住宅地は都心からは少し離れた場所にあり、駅へ出るにも距離がある。歩いて行ける距離とは言え、清人のペースに合わせていては遅刻は必至だった。
清人はあんじの手を引いて、一巳の後に続く。駅までの道をくだらない会話を楽しみ、毎日乗る電車に揺られ学校へと入っていった。昇降口を抜けると、三年生の一巳は軽く手を振って階段を一つ多く登って行く。
清人はあんじを連れて一年生の教室に入ると、彼らの一日がようやく始まった。
「おお!清人!咲元、久しぶり!」
教室のドアを開けた途端に、クラスメイトの一人が手を振ってくる。挨拶を交わし清人が席に着くと、あんじが女の子に呼び止められた。
「あんじ、会いたかったよう!」
他の生徒と何ら変わりの無い生活。
実際、自分は恵まれている、と清人は思う。家は父が死ぬ前に建てた家があるし、母方の祖父母は裕福で、何かと援助をしてくれていた。子供の居ない伯父夫婦は、月子が成人した今も、二人の世話を焼にくる。
贅沢だ、とさえ思う。両親が居ない以外は。
始業式が終わり、午前中に学校を出ると、まだ夏の名残の太陽がじりじりと地面を照らしていた。清人とあんじは、昇降口で待つ一巳と合流して駅へと向かう。
「始業式って何で金曜なんだろ。一日だけ来てまた休みとか、ダルい」
清人が朝あんじに貰った飴を剥きながらぼやく。一巳はそんな清人に一瞥をくれ、お前はいつもダルそうだと呟いた。朝と同じに他愛のない会話、けれど朝とは違い駅へと近づくにつれ清人の言葉数が減っていく。
駅に着いて一旦足を止める、と清人は溜め息をついて時間を確認し一巳を見た。
「一巳ちゃん、あんじ頼むよ」
「ああ」
清人は学校からバスで少し行ったコンビニエンスストアでアルバイトをしていて、ほぼ毎日放課後はアルバイトに当てている。この日も夕方までシフトを入れていた。
「バイト頑張ってね!キヨ」
あんじの笑顔にうんと答え、二人が乗った電車を見送ると、清人はバイト先に向かう為、バスに乗り込んだ。
清人と別れ一巳とあんじが最寄り駅に着いた頃、まずあんじの携帯が鳴った。人の邪魔にならないように二人は道の端に寄り、一巳は携帯電話を確認するあんじに聞いた。
様子からするとメールらしい。
「清人か?」
「うん」
あんじの返事と共に、今度は一巳の携帯が鳴る。一巳は相手は誰だか解ってはいたが、すぐさま確認すると返事のメールを打った。
「そっちも?」
「あぁ、うん。清人」
二人は困ったような複雑な表情で見合うと、それぞれメールの返事を清人に送った。
「今年はいつ終わると思う?」
「多分、今週一杯は続くかな」一巳の問いにあんじは軽く微笑み、そう答えた。
これは安否確認だ。
清人は両親が亡くなって以来、夏の終わり、そう両親の命日前後の二週間はいつも様子がおかしくなる。携帯電話を持たされた年齢からは、頻繁に連絡が入るようになっていた。
この期間が終わればまたメールも電話もあんじにしかほとんどかからない。一巳もあんじも、そしてやっている清人もおかしいとは解ってはいても誰もそれを口にはしなかった。一巳は一つため息をつく。そして、あんじを連れまた歩き出した。
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