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その瞬間は動けなかった。傍から見ればきっと、山で獣と遭遇したようなそんな顔をして僕は現れた相手を凝視していたと思う。
―……っ!
驚いたなんてものじゃない。通り越しての、絶句だ。まるで蛇に睨まれた蛙のように、僕は動けない。ただ固まったように突っ立っている自覚はあるのに。動くという行為を失念していた。
頭の中は完全に混乱に陥っている。予想しなかった事態に直面して、うまく対処することができない。
そんな中で、僕の心中などまるで構わずに、相手のほうが先に口を開いた。
「まさかこんなところで人と出会うなんて、ツイてんのかねえ、って思いますけど」
「……?」
月明かりだけが照らす薄闇の中、草むらから現れたその男が僕に訊ねる。
「ひょっとしてあんた、妖精とかそういう類のもの、とかじゃないですよね?」
「はあ?」
思わず怪訝な顔をした。問われた意味がわからない。
僕がそんな風な目を向けると、男は自分の言葉が失言だと気づいたのか、撤回を表現するみたいに手を振った。そして糸のように目を細めて笑顔を見せる。だがそれは、なだめるようなどこか嘘くさい笑みだった。
「いやいや冗談ですって。まあ、なんにしてもここで誰かに会えて良かった。山道で迷っていたんですよ、実は。泉ヶ原学院の学生寮に行きたいんですけどね。知っていたら教えていただけません?」
「学生寮に……?」
呟いた僕は呼吸を落ち着けながら、ようやく心に余裕ができて、その男を観察する。
―学生、だよな?
若い男だ。たぶん僕と同じくらいの歳だろうか。彼は制服じゃなくてジーンズに長袖のVネックのシャツを着ていて、大きめの荷物を肩にかけて持っている。
身長はずいぶんと高そうだ。僕は湖の中にいて下から見上げる形だけれど、はっきりと見てわかる。並べばその差はきっと明らかだ。
肩幅ががっしりとしている。顔立ちは、一見して人懐こい雰囲気はあるけれど、ちょっとつり目だし、どちらかと言えば地味かもしれない。短髪で整った顔立ちをしているほうだとは思うけれど、華やかさはない。
よく女の子みたいな顔立ちだと言われる僕とは、まるで違ったタイプの少年だ。
分析を終えて僕は一つ息を吐く。
「学生寮なら来た道を戻って、分かれ道があるから、右手のほうに進めばいいよ。広い道に出るから、さらに右に進んで行けば建物が見えてくる。五階建ての建物で、赤色の屋根はこの暗さじゃわからないかもしれないけど。敷地に入る門に学生寮って文字が刻んであるから、すぐにわかるんじゃない?」
説明をすると、理解したらしい彼はぱあっと表情を明るくした。
「なるほどねえ。そっか。やっぱあのとき道を間違えたのか。直感だったんだけど。見事に外れだ。まいったね。ありがとう。助かったよ。今日中にたどり着けるかどうか、実はかなり本気で心配だったんだ」
「ひょっとして、方向音痴なの?」
「というより。探しものが、あまり得意じゃない、というか。そんな感じで」
彼が苦い笑いを浮かべて首を竦める。笑っていても内面ではどう考えているのか真意は読み取れない。そんな掴みどころのない男のように感じていたから、彼が苦手なことがあるとさらけ出したのは意外だった。
思わぬことに戸惑ってしまう。彼に対して不愛想に接していたはずなのに、なんだか気がそがれてしまった。
「ふうん。大丈夫だよ。行けば建物はすぐに見つけられると思うから。暗いし足元に気をつけて行くといいよ。山道だしね」
「お気遣いどうも」
彼は紳士がするように僕に向けてぺこりと会釈をした。言動は軽々しい。やっぱりどこか胡散臭い。
見た目どおりなら僕と同じ年頃のはずなのに、なんだか同世代とは思えないのは、彼には大人びた雰囲気がちらちらとうかがえるからなのかもしれない。
彼が顔を上げた。
「では」
「うん。もう迷わないようにね」
別れ際に僕をじっと見つめる。すぐに背を向けて歩き出すと思われたのに、なかなか彼は動き出さない。
―なんだろう?
僕が首を傾げると、彼はハッとした顔つきをして、ぎこちなく頷き、ようやく背を向けて足を踏み出した。ちらちらと何度か振り返りながら、その姿は遠ざかっていく。やがて彼の姿は闇にまぎれて見えなくなった。
立ち尽くしたままだった僕は、ふと現実に呼び戻されたかのように、急に今の自分の状況を思い出す。顔がカッと熱くなってくる。
「な……なんなんだよ、あいつ……?」
思い出すと妙に腹が立ってきた。今さらになって裸を見られたことにも気づいて、さらにイライラをつのらせる。
見られて恥ずかしい体はしていないけれど、羞恥だってないわけではないし、なんの前触れも心構えもないときに見られたらさすがの僕だって良い気はしない。
沸々と怒りが込み上げてくる。
「あーもう! なんなんだよあいつ! いきなり現れて道に迷ったって、なに?」
そもそもどうして現れるはずがないところに人が現れたのか。学生なら今晩は外出禁止になっているはずなのに。
「学生じゃないの? 警備班はなにしてんのさ。一体どこを警備してるんだよ! まんまと侵入許しちゃってんじゃん。意味ないじゃんっ」
警備班に所属している友人の顔を思い浮かべながら、次に会ったときには一言文句を言ってやる、と意気込む。
そんなとき不意に、めまいが起きた。
「うぅ……っ」
頭がぐらついてとっさに額を押さえる。ふらついた体はすんでのところ倒れずにすんだ。けれど気分が悪くなってきて、吐き気を堪えるように今度は口を押える。
「……んっ……あ」
すぐに原因に思い当たった。血の気が引く。
―まさか。失敗、したってこと……?
儀式の最中を他人に見られた。それは完全な儀式の失敗だ。今自分の身に起きていることがなによりの証拠で、それは失敗したことによる、僕への返報だ。
クイーンは儀式で人間の穢れを呼び集め、自分の体内に取り込み、そして浄化する。月の光を浴びながら一定時間、湖に浸かることで本来なら体に取り込んだ穢れは浄化される。
それで儀式は終わるのだが、途中で儀式が失敗したため、浄化は行われず、留めていた穢れは自分と同化した。
結果、僕の体は大量の穢れに侵されてしまった。
この瞬間から。
「そんな……」
本当に最悪の事態が起きていた。
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