その物語のはじまりを僕は知らない

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 それから話題はそれていき、慶尚といつもの下らない世間話をしながら、気を紛らわせりように僕はノートを写す手を動かしていた。  そんなときだ。教室の入り口に見知った顔が現れた。 「姫月、いるかな?」  教室の入り口から顔を覗かせ、中を確認するように見渡す。そしてこちらに気づくと彼は表情を和めて中へ入ってきた。 「いた、いた。ちょっといいかな」 「藍染先輩? なにか用事ですか?」 「あ、いいよ、そのままで。おれがそっちに行く」  反射的に席から立ち上がった僕を藍染先輩が制止する。先輩がわざわざ二年生の教室にやってくるのは珍しい。  どことなくふんわりとした優しげな雰囲気を持つ藍染先輩は、美人で校内のどこにいても目を惹く存在で、同級生にも下級生にも人気がある。普段は彼を慕う同級生たちと行動をともにしている姿をよく目撃するので、彼が単独で、しかも学年の違うクラスを忍ぶかのように訪ねてくるのは稀有なことだった。  よほどの用事なのだろうと、僕は席を立ったまま先輩を待つ。すると気を利かせたのか、慶尚がそそくさと帰る準備を始めた。 「おヒメ、ノートは夜にでも寮で返してくれたらいいから。終わったらメールして」 「了解。慶尚、ありがとう」  教室から出て行く慶尚を見送ってから、僕は待たせていた先輩に向き直る。  先輩と話をするのは、実は少し緊張する。普段ならそんなことはないのだが、隠していることがあるせいか、妙に鼓動が速くなる。  僕が儀式を失敗したことを知って、咎めるために訪ねてきたのだろうか。そんな疑心暗鬼に捕らわれる。  藍染先輩はいつだって親身になってくれて優しい。だから一方的に責めるようなことはしないはずだ。そう思い直して気持ちを落ち着かせる。 「お待たせしました、先輩。あの、なにか?」 「悪いね、彼との時間をもらってしまって」 「いえ。いつでもできる用事なので」 「そう? なら良かった。早急に伝えたいことがあってね。……姫月? ちょっと体調が悪いのかな。顔色があまり良くないね」  藍染先輩がじっと僕を見つめてくる。ただの後輩に向ける心配そうな視線も、藍染先輩に向けられると妙に胸がざわつく。恋い焦がれているわけでもない僕がこうなのだから、彼に想いを寄せる人間には先輩のちょっとした動作がどれくらいの影響を与えているのか計り知れない。  僕は否定するように首を横に振る。 「いえ。大丈夫です。それで、伝えたいこと、とは」 「無理はしないようにね。それで本題だけど。実は今日うちの一年生に転入があってね。こんな時期に、って思って。ひょっとすると、だけど。今一年生はクイーンが空席だろう? だからその候補として入ってきたのかな、って」  どうやら先輩は、僕の儀式の失敗について言及をしに来たわけではないらしい。そうではないと薄々思ってはいたが、はっきりと違う話題だと知れて、僕は安堵する。  先輩の話に耳を傾ける。 「新しいクイーン、ですか。そういうことってあるんですか?」 「なくはないんじゃないかな。やっぱり、ほら。本来は三人いるところが二人なわけだし。一人に対する負担が大きいのは理事長もわかっているみたいだからね」 「クイーンの補充……それは考えなかった」 「二人でやっていけないことはなかったしね。この先も。姫月と交互に役割をこなしていくんだとおれも思っていたけど」  何気ない先輩の言葉に胸の奥がチリリと痛む。  藍染先輩と同じように僕も思っていた。無難に役割を終えて卒業をすると疑わなかった。けれどそれが今、僕の失敗のせいでそうじゃなくなるかもしれない。  僕が使えないとなると、クイーンの仕事は藍染先輩が一人で引き受けなければいけなくなる。そう考えるとクイーンの補充はありがたい。  僕の状態をなにも知らない藍染先輩が、僕に微笑みを向ける。 「それでね、さっそく。明日の昼休みに転入生に会いに行こうと思うんだ。姫月も一緒に来てほしい。確認をしに行こう」 「わかりました。お供します」 「じゃあ約束だ」  先輩と明日の約束を交わして僕たちは別れた。教室に一人残った僕は慶尚から借りたノートを写す作業に戻る。手早く済ませて帰りたい。そんな気持ちとは裏腹に、気がかりなことが多すぎて集中できなくて手元が止まり、なかなか作業が終わらない。 「……僕の代わりの新たなクイーン、か」  これからは今までのようにはいられない。  もうずっと考えている。僕のことを。この先をどうすればいいのか。考えなければいけないのに。けれど思うと怖くて、なにも考えたくないと、思考が止まりそうになる。  相反した気持ちがある。混乱している。気持ちが揺れ動く。不安でたまらない。 ―……怖い。 だから僕は、まだなにも決められずにいる。
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