24人が本棚に入れています
本棚に追加
scene95*「ずっと遠く」
昼に食べたうどんが、うっかり出てきそうなほど、胃がひっくり返りそうになった。
私の心が軽くなる日は、しばらくきそうにない。
【95:ずっと遠く 】
失恋をした。
1年という、まぁ中途半端に短い恋だった。
年齢差は9。昔に離婚していて子どもはいないなんて、丸っきりの嘘だった。
「ほんとさぁ、騙されてるのも気づかない、おめでたい性格、やんなっちゃうよ」
「しかし、ホント酷い話だよそれ。私が聞いた中でも、一番だね」
花の金曜日。
親友のサヨと仕事後に待ち合わせして、居酒屋で飲んでいた。
枝豆、ししゃもに鯵のたたき。オニオンサラダと焼き鳥に手羽先、出し巻き卵。
ビールは既にグラス3杯目に入って、サヨはタバコが手放せない。
私はししゃもをかじりながら言った。
「本当に、涙すら出てこないよ。ショックすぎて」
恋人だった男とは、本当に性格も相性も良かったんだけどな。
良かっただけに思わぬ第三者から真相を知ってしまって、私は烈火の如く怒り狂った……というのは心の中で、彼には驚くぐらい冷静に別れを告げることが出来たのだ。
再現するとこうだ。
「奥さんも子ども、しかも女の子でもう2歳なんですってね。私と会わなくても、充分幸せなんじゃない。あんまりにも幸せそうに見えなかったから、余計な世話を妬いて今までごめんなさいね?」
「あはははは!もう嫌味にも程があるってば」
「嫌味すら言いたくなるわよ!」
その後は、彼からのメールも電話も一切取ることは無かった。
弁解を聞いたところで、奥さんと別れるわけではないうえに、私は不倫なんて、この世で一番大っ嫌いだからだ。
ビールを半分飲んだところで、次はカクテルにしようか、梅酒にしようか悩む。
こんな時でさえ、頭の隅で彼の事を考えてる自分が本当に恨めしい。
恨めしいと思うくらいに、本当に好きだったのだ。
『たったひとりに会えた。』
そんな風に思っていたほど。
出会いは何てこと無い。
電車の中で、痴漢から助けてくれたのだった。
いつもは路線も方向も違うにも関わらず、彼がその電車に乗ったのは本当にたまたまで、それだけのことなのにあんな風に好き合うなんて思ってなかった。
お礼にと名刺交換をして、そうして連絡するうちに夜ご飯に誘われた。
業界も違うし年齢も違うけれど、話をするうちにすごく楽しくて最初は戸惑った。
どうせ1ヶ月くらいしか関係は続かないだろうと思っていたら、会えば会うほどに好きになっていったし、彼も同じだとはにかんで答えてくれた。
それでも家に連れていってくれたり、夜も電話してきたり、不信なところなんか気づきもしなかった。
だってマンションだってまるっきり一人暮らしだったから。
手の内を見せられたと思った私は「バツイチ説」を本当に信じていた。
だから結婚してる真相を知った最初は疑ったし、嘘だと思いたかった。
ちらっと彼との旅行写真を、職場の先輩に見せた事が発端だった。
「この人……私がいた前の会社の先輩の結婚式で見た気がする……。実はその結婚式ね、先々週だったの。それにこの人、奥さんと……小さな子どもと来てたから印象的だったな。仕事もネットビジネス業界でやり手の人らしいような事聞いたけど……」
人違いだったらごめんねと先輩は付け足してくれたし、
まさかと思いつつも私はなんだか気になったので、その先輩に協力を頼んで裏をとってもらったのだ。
そうしたら、どんぴしゃり。
昼に食べたうどんがうっかり出てくるかと思うくらいに、胃がひっくり返りそうになったのを覚えている。
今も継続するこの悲しさは言葉で言えるレベルのものでなく、なんていうか胃の裏辺りからグワァッと黒い何かがうずまいている感じ。
ずっとムカムカしていてまったく気持の良いものではない。
そしてあんなに好きだったにも関わらず、 「悔しい」 たった一言が浮かんだ。
さっそく問い詰めたら彼は「悪かった」と一言いった。それだけならまだ良かった。
問題は、それに続いた彼の「説明」だった。
「奥さんとはもう冷え切っていて、家族も娘も大事だけれど、愛は無い。
家に来たときに分かったように、別居してるんだ。
元々離婚の話もでてたけど、妊娠が発覚して、子どもの為にも別れられないままきて……。
だけど同じくらい、お前のことも大事なのは本当なんだ」
愛がなかったら子どもなんてわざわざ作らないっつーの!
それに家族でにこやかに友人の結婚式だなんて仮面じゃねーじゃん!
だいたい、同じくらいってなんだよ。バカにすんな!!!
大事って言うなら、それ以上の存在にしてから言え!!
と、どうして私は怒鳴りつけなかったのか。
そのときの私は、とにかく穏便に、かつ冷たく切ってしまいたかったのだ。
それをサヨに言ったら、やっぱり怒られた。
そのぐらい言ってやれば全然良かったのに、と。
嘘つく男が一番許せないし、最後は人間的に信用できないんだと。
本当のところ、私だって怒鳴りつけたかった。
だけどそれをする事で、ますます自分が醜い女に思えるようで何だか嫌だった。
般若のように男に敵意むき出して怒る自分を想像したら、呆れそうだったから。
そしてそんな事をしても、彼は私と一緒にいたがらないだろうと思ったから。
だけど一番の理由は、別れの電話で嫌味を言った時のどこかはぐらかすような態度だった。
その後がもっとだめで、「くだらなすぎる弁明」によって、あんなに鮮やかだった100年の恋はあっという間に色褪せてしまった。
(結局、奥さんと別れないんだろうな。ああいう人は。)
私は、私個人のプライドでなく、女としての「見栄」をとった。
私たちはさんざん飲んで喋った。
居酒屋を出ると、駅での別れ際にサヨが言った。
「まぁ……でもさ、今回のは男が一枚上手で痛い授業料ってことだね。
あーあ。他人の不幸をこういうのもなんだけどさ、彼もバカだね。最後にそんな事言うなんて、女をバカにしてるのと同じだよ」
私は苦笑しながら「ほんと、そうだよね。ありがと」と手を振る。
サヨは反対方向のホームの人波に紛れて消えた。
涙が出てきそうになって困ったけれど、どうにか堪えた。
嘘をつかれて悲しい、奥さんのほうが大事だと改めて分かって悔しい。
それで充分泣ける事だけれど、理由が理由なだけに、泣くのも癪だとずっと思っていた。
あれからというもの、私の涙腺はおかしい。常に涙がスタンバっている。
昼間の、しかも仕事中に限って目が潤みそうになってくる。夜に一人の時は泣けないのに。
そして「花粉症みたいで」と誤魔化すたびに、なんて不条理なんだ、と思う。
私がどんなに最低な気持ちでも世の中は回り続けるし、
美味しいものは美味しくて、
キレイなものはキレイなままで、
あの人はあの人で幸せでいるのだ。
あんな事言ってるけど、しばらくしたら奥さんとの問題も解決できるに違いない。
あの人は優柔不断な部分があるから、奥さんと子どもを自分から手放せるはずがない。
そういう性格なのを1年間も傍にいれば嫌でも分かってしまう。
だから、どんなに好きでも私がどうこう言って解決できるものでもない。 彼の心が決める事だ。
私が彼の為に出来るのは、潔く突き放してやる事しかないのだ。
帰りにレンタルショップに寄った私は泣けそうなDVDを2作、思いっきり笑えるのを1作借りた。
本屋ものぞいたら定期的に買っているファッション誌の最新号もあったので買った。
マンションまでの帰り道も、考えてしまっていた。
彼の事はもちろん、紗代の言葉、今までのこと。
嘘つかれてた、それでも信じきってた自分のこと。
どんなに好きでも、思い合ってても、出会うタイミングや、時期が違ければ意味なんてない。
本当に大好きだったし、大事に想ってくれてたのは伝わってた。
だからこそ、ショックだった。
ショックでたまらなかった。
それなのに、泣けるタイミングすらも見つけられない私はこうして『泣けるDVD』なんか借りてだなんて、なんか惨めだ。
いくら親友に慰められても、心のどこかでは、彼が好きで好きでしょうがなかった。
それもきっと、サヨは気づいてただろう。何せ、高校時代からの付き合いなのだから。
マンションのドアを前にして、とりあえずもう今日は考えるのをやめようと思った。
泣けるDVDも借りてきた事だし、明日は休みだ。
たしか冷蔵庫に、ワインがあったはずだ。それにチーズも。
私はドアキーを出すと、しゃらん、と音がした。
キーにつけた、パールとシャンパンピンクのクリスタルのキーホルダー。
そういえば、これも彼がくれたものだったんだよなぁ。
1年近くもつけていると、彼がくれたものでも、自然なものになっている。
クリスタルに、エントランスの照明がはねかえって、キラキラしている。
この世にある全てのキラキラを閉じ込めてしまったような世界。
これを貰った時の気持ちみたいだなぁと、ぼんやり思った。
これが「自分のパワーになった」なんていえる日は、まだ私にはきそうにない。
言葉で言えるほどではない悲しさやモヤモヤを抱えているうちは、心から幸せな気分にはなれないだろう。
本当に心から「好きだった人」にサヨナラを告げる日がくるまで、 何回の朝と夜を迎えるんだろうか。
あぁ、また目の前が歪んできた。
外して手のひらに乗せたキーホルダーが余計にきらめく。
泣くのは早い。
泣くなら、もうちょっとしてから、泣くんだ。
気持ちを遠くに置かなければならない作業はこれからなのだから。
私は、何もつけてない鍵だけの鍵をドアに挿した。
( 大人になれないから大人ぶりたいの )
最初のコメントを投稿しよう!