scene5*「散歩」

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scene5*「散歩」

何しにきたのよ。 散歩。 当たり前のようにそう言って、 あっという間に私の右手と、気持ちをさらってくんだから。 【5:散歩 】 ほんの些細な事だった。 と、いっても、ゴハンが気に入らなかったとか、録画して欲しかったのをしてくれてなかったとか、色落ちするものを一緒に洗って私の白い服に色がうつったとか、そんなんじゃない。 タクヤが食事に出かけるって話は知ってた。 だから誰となんてのは詮索なんかもしなかった。安心してたから。 ……今日は散々な一日だった。 仕事で失敗して落ち込んでて、足がもう動けないくらいに疲れてて、同棲中の恋人であるタクヤが帰ってくる前に一人の時間を満喫して元気になろうって思った矢先の帰宅途中。 タクヤが酔っ払った女の子を抱きかかえて、タクシーに乗るところを見てしまったのだ。 腐るほどの人がいるこの広い都心で、そんなシチュエーションに出くわすなんてありえなさすぎて笑えてくる。 それでも寄り道するような余裕もなくて、とにかく家で休みたかったから帰ってきたのに…… 。 すぐに熱いシャワーを短時間で浴びて、ハーブの香りのする休足時間をふくらはぎに貼る。 レモンのチューハイをあけてグビグビ飲んでから息をついたときに玄関が開いた。 何となく、いつもの「ただいまー」が、どこか疲れてるように感じた。 けれど私だって疲れてる。気持ちが一番疲れてる。おあいこだ。 「おかえり。お疲れ」 持ってた缶を軽く挙げて、合図する。 タクヤは麻のジャケットを脱いでからメガネを外し、洗面所でまず手と顔を洗う。 彼なりの帰ってきた時の儀式を一通り済ませてから、向かいのソファに座った。 アルコールにあまり強くない彼の顔がだいぶ赤い。 この様子だと結構飲んできたのかもしれない。 「だいぶ飲んだの?」 「ん?ああ。もう相手の子がさぁ。飲み方知らないから参っちゃうよ」 「へー。大変だったね」 相手の人、じゃなくて、相手の子、なんだ。 そんな事を付け加えたかったけど、やめた。 タクヤは、はー、とため息をついてから 「あーもー、ねむい。ねる」 そう言ってだるそうに寝室のほうへ歩いていった。 背中を見送って、また缶に口をつける。そうして今度は私が息をついた。 そしたらその途端、なぜだか涙がボロボロこぼれた。 いきなりのことに我ながら焦ってしまう。 悲しいというわけでもない。なのに何故か涙がとまらない。 あれ?あれ? 拭うけれど、おかまいなしにボロボロ零れてしまう。 どうしよう。 私は一体どうしたんだろう。 ただ疲れているだけなのに、なぜ涙が出るんだろう。 そんな時にいきなり寝室のドアが開いて、そちらを見れば彼が目を真ん丸くして私のほうを見ている。しまった。 「スミ?どうしたんだ」 「な、なんでもない。わかんない。でも平気」 そう言ってあわててティッシュで涙をふき取るけれど、しまいには鼻までたれてきた。 胸があつい。 心が苦しい。 近寄ってほしくない。 見て欲しくない。 そんなのとは裏腹にタクヤは傍にきた。そして優しく言ったのだ。 「なんか分からないけど、どうした?ごめんな」 ごめんな。 そう言われた瞬間、自分の中で『そうじゃない』という言葉が強烈に響いた。 そうじゃない、そうじゃない、そうじゃない。 自分でもよく分からない。 自分で自分の気持ちに追いつかないなんて、そんなのあるわけがない。 そう思いながらも涙が止まらなくて、立ち上がっていた。 「ちょっと、あたま、冷やしてくるっ」 逃げてしまいたい、何故だかそう思った。 タクヤの声も聞かず部屋をでた。ドアの閉まる音を後ろで聞いて安心しながら足早にマンションのエントランスを抜けた。 ……そうじゃない、と思ったのは嫉妬からだった。 あの子へのヤキモチじゃない。 タクヤの仕事が、生活が、やけに充実しているように感じたからだ。 一緒に暮らして、こうして愛し合っているのに、こんなにも違うなんて思いもしなかった。 実のところ、私はこの春に異動になった。 前の部署での「失敗」だった。つまるところ厄介払い。 それでも、新しい場所でちゃんとやっていこう。見返してやろう。 人望も勝ち取って、今の自分を受け入れて、新しい自分を創っていこう。 能力重視の会社だから、認められれば元のポストに戻してもらえて、前の仕事に戻れる。 私は絶対に戻るんだ。 そう決意していた。 でも、そんなのは最初から机上論だったのかもしれない。 新しい場所はなかなか馴染めるものでもなくて、動けば動くほど空回り。 それもこれも、前の部署で上司の反感を買ってしまったからだ。 だけれど、あれは私のアイデアだったし企画書だって私が書き上げた。 上司にもチェックしてもらっていて、私を推すとまで言ってくれた。 それなのに人のパソコンからデータそのものをとっていくなんて思わなかった。 ……だって信頼していた上司だったから。 多少、荒いところはあったものの、キッチリ仕事をやる人だったから。 そして私もそうなっていきたいと思うほど、憧れていたから。 事態を知って意見したことが間違っていたとしても、最後までいいがかりなんて言われて、誤解されたままとばされることになるとは思わなかった。 本当はこれで辞めればよかったのかもしれない。 でもプライドが許さなかった。 だけど、どんな場所でもシッカリやってやろうっていうのは向こうの思うつぼで、弱いものは強いものにずっと踏み潰されるだけのものなんだ。 そんなどうしようもない事を思って、涙がとまらない。 涙が止まらないまま歩いた。 夜も遅いし、泣き顔も見られたくないのでわざと暗い住宅街を歩いていた。 外灯には小さな羽虫がたくさんいて、暖かくなったなぁと思った。 涙が出すぎて頭がボーっとしてた時に、足音が近づいてきた。 不思議と怖くなかった。 きっとタクヤのものであると分かっていたからだ。 振り向くと、やはりそこには彼がいた。 すごく不安そうな顔をしていた。そして、 「 スミ 」 一言、私の名前を言った。 私はこんなにボロボロなのに、女の子を介抱してる彼がねたましかった。 そんなこと思う自分に嫌気がさしていた。 だからこの人の傍にはいられないのかもしれない、と思った。 それで外に出たのに…… タクヤが目の前に居てくれるだけで、安心している自分がいる。 ひとりぼっちみたいな気持ちの私の傍には、タクヤがいてほしいと強く思っている自分がいる。 「……女の子の自宅には上がりこんでないでしょうね」 いきなりそう言ったら、「えっ!?あ??」とびっくりしだした。そりゃそうだ。 何で知ってるんだ、という顔をしながらも「当たり前だろ」と、何故かムスッとしたふうに言った。 その様子に思わず笑ってしまう。 私はやっぱり疲れていたんだ。 かっこ悪くて仕事の愚痴も我慢して、 こうしてタクヤを困らせて、 それで何のメリットがあるんだろう? もう、いいのかもしれない。 違う道でも、きっと相談に乗ってくれる。 こんなにもわけのわからないパートナーを追いかけてくれて、当たり前に私を想ってくれるこの人に、もっと言えば良かったのかもしれない。 涙は乾いて、頬が少しパリパリしている。 「何しにきたのよ」 わざと強がって言うと、散々困らせておいてそりゃないだろって顔をされたけど、私の性格を知り尽くしている彼は、 「散歩」と、 当たり前のようにそう言って、あっという間に私の右手と気持ちを上手にさらっていった。 タクヤにちゃんと話そう。 強がってばっかりだった私のことを。 言えなかった事や言わなかった色んな気持ちを。 きっと、彼なら聞いてくれる。こうして追いかけてきてくれたんだから、受け止めてくれる。 今までのことも、これからのことも。 合わせてくれる歩幅は、私にぴったりだもの。きっと、安心していい。 2人で歩く道の上、真っ白な白い月が見えていた。 ( あるこう。とりあえず。 )
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