scene8*「泣きべそ」

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scene8*「泣きべそ」

どうしても、見れません。 【8:泣きべそ 】 好きだと、遠くから眺めてる事しかできなくって、だけどいざ近くにいるとなると、直視なんか出来ないんです。 「このUSBにあるデータをコピーして、会議用に資料まとめといてもらっていいかな?」 「わかりました。何時までに準備すればいいですか?」 「じゃあ、できれば3時までに仕上げてくれるかな。ありがとね」 「わかりました」 これから外出なのか、コート姿のサイトウさんがUSBを私に差し出した。 私は一瞬息をのんで、でもそれが分からないようにしてデータを受け取った。 見上げると「頼むね」と微笑まれて、私は思わず目を伏せてしまう。 本当は、ただ仕事を頼まれただけでも、声がひっくりかえってしまいそうなくらいに意識してるのに。 ……それなのに私は目を合わせたことなんか一度だってない。 だからきっと嫌われてるって思われていると思う。 でも、目を合わせたくないんじゃない。 ……合わせられない。ドキドキしすぎて、心臓が止まりそうでだめなの。 サイトウさんから貰ったデータを確認してみると、頼まれた会議用の資料は枚数が多いわけでもなく、なんだか拍子抜けしてしまった。 すぐ終わりそうなものなのに、どうして1時間半も後の3時にって言ったんだろう。 当然、オフィスにサイトウさんの姿はなくって、ホワイトボードを確認すると『 1:30~2:30 外出 』と整った字で書かれていた。 なるほど。 これなら余裕で彼が帰ってくる時間には渡せそうだ。 資料を作りながら、思わずため息する。 サイトウさんは私より2年先輩で、気さくなうえに面倒見も良く優しい。 態度が素っ気ない私に対しても、いつも優しい雰囲気で接してくれるし、こうして頼み事もしてくれる。 ……本当に嫌われてたら、頼みごとだって他の子にするだろう。 そんなに良くしてくれるのに、私はこの態度を直せないでいる。 いつからだったろうか。 気がつけば意識するようになっていた。 ……そうだ。 少し前に辞めたハケンの女の子に辛く当たっていた上司に、サイトウさんが上手に上手におだてて、 そのハケンの子がそれ以上傷つかないように立ち回っている事に気がついてからだ。 私もそれを目の当たりにしていて、実際にやだなって思っていたけれど、 私にできるのはハケンの子と気晴らしにランチしたり励ますくらいで、そうやって実際にピンチを助けたりなんてできなかった。 だけれどサイトウさんは実際に行動して、 上司の八つ当たりの矛先とかを上手に昇華させていてすごいなって思った。 結局そのハケンの子は寿退社で辞めてしまったのだけれど、驚いたことに会社近くの定食屋さんに嫁いでいたので、今では私がランチ時に仕事の愚痴とかを聞いてもらって励まされている具合だ。 ……もちろん恋の悩みも。 ……入社したときは、もっと自然に話せたりできたのに…… そう思うと、私はどんなふうに彼に話しかけ、どんな表情で彼を見ていたのか分からなくなってしまう。 だからいつも素っ気無くなってしまうのだ。 3時になる4分前に、サイトウさんは戻ってきた。 私は彼のデスクまで行き、資料とUSBを渡した。 「先輩。頼まれてたもの仕上がりました」 「あぁ、ありがとう」 にこやかに受け取るサイトウさんの指先が、私の指先に触れた。 あ、指だ、って思った途端、心がチリついた気がした。 物を渡すだけでも緊張してるのに、指先まで触れるなんて余計すぎて困る。 本当は近くにいて自然にしたいけど、いたたまれなくなってきたので、自分の席に戻ろうとしたらサイトウさんに「あ、ちょっと……」と呼び止められる。 「な……んですか?」 資料に不備があったとか?それはそれで困ると思って、声が思わず上ずる。 すると意外な答えが返ってきた。 「ちょっと休憩しない?仕事の事でお願いしたいこともついでにあるから」 なんてこった。 なぜこんなことに……? 休憩所には、困った事に誰もいなかった。 休憩所はオフィスを出てエレベーター前のホールにあった。 ホールの前は一面の窓になっていて、そこにコーヒーコーナー(ってもインスタントだけど)や自販機、喫煙所まで設けてあって、女性社員だけでなく男性社員たちの憩いの場になっている。 オフィスは高層ビル内にあるので見晴らしが良いようにか、窓の外へ向けてあるソファがいくつかあって、その一つに私は固まったまま座った。 コーヒーを両手に持った彼が近づく靴音に思わず緊張する。 本当は私がやるべきことなのに、制されてしまったものだからどうしようもない。 「はい、どうぞ」 「ありがとうございます」 少し愛想笑いしてみて、紙コップに口付ける。 あんまり美味しくない社内のコーヒー。今の私は緊張しすぎて味がもっとわからなくって、わけの分からない苦い飲み物を飲まされているような感じしかしなかった。 私はソファに座って窓の外を眺めたけれど、街並みは波立っていく私の心を癒してくれるわけでもなく焦らすばかり。 サイトウさんは隣に座るのかと思ったら、私の座るソファの横に立ったままコーヒーを飲んでいた。 そもそも、こんな挙動不審で素っ気ない私に、何の仕事をお願いするつもりなんだろうかと思っていると、サイトウさんが本題に入った。 「あのさ、聞いても良い?」 「はい」 ドキリとした。手が震える。汗がでてくるのが分かった。 ……やっぱり仕事の話なんて嘘だったってことが直感で分かった。 「前々から思ってたんだけどさ、余所余所しいのは何で?」 「……そんなことないですけど」 「いやいや、あるでしょ。なんか嫌われた事したかなぁって……」 「そんなことないです。これが私の普通なんです」 自分から言った癖に思いきり悲しくなった。 いきなり直球で繰り出してきた質問に、私はぐいっとコーヒーを飲み干した。だめだ、余裕が無い。 もうどうすればいいの。 誰か休憩しにきてくれたらいいのに。 二人っきりなんてどうしたらいいの。 ……嫌いじゃない、好きだけど、好きだから近づけない。 手で遊んでいる、空になった紙コップをずっと見つめた。 サイトウさんは「そっか」と言ってゆっくりしたペースでコーヒーを飲んでいた。 そして、「あのさ……」サイトウさんがそう言いかけたとき、 私は不覚にも紙コップを落としてしまい、サイトウさんの言葉を遮ってしまった。 転がったコップを慌てて拾おうとしたら……手をつかまれた。 なに?なに?なに?? 咄嗟の事で頭がパニックになる。 「せめて俺のさ、目ぇ見て話してくれない?」 どうしよう、もう打ち明けようか。 どうしよう、やっぱり振り払おうか。 「だめです」 それが今の私にできる精一杯の答えだった。 そして、それを聞いたサイトウさんが息をついた。 ……何となく、心が離れてくのがわかった。 「ごめんなさい……」 私の視界に入っていた先輩の手と足が消え、そこから離れる靴音がした。 絨毯が鈍くこもった音をたてる。 完全に一人になり、その場にへたりこんでしまった私は、こぼれる涙をそのままに歪んだ紙コップを見つめることしかできなかった。 ごめんなさい。 ……勇気が無い。 大人なのに勇気が無いの。 好きなんです。 どういう答えを言えば貴方にとって正解なのか、分からないくらいに好きなんです。 見ると心臓が止まるくらいに苦しくなるんです。 身動きが取れなくなるくらいにおかしくなりそうなんです。 本当は、貴方が好きです。 これを言えたならどんなにいいか……。 さっきまで誰か来てほしかったのに、今は誰も来て欲しくないと思った。 だけれどこのままこうしていたら本当に誰かきてしまいそうな気がして、私はいい加減涙をふいて、転がっていた紙コップを取った。 いい加減戻らなければと立ち上がって振り向いたら、 なんとそこにはサイトウさんが立っていた。 それが分かった瞬間体中の神経が逆立つようだった。 嘘、どうして……もういないと思ったのに。 「あ……」 言葉にならない声が、熱い息と一緒に口からこぼれる。 サイトウさんは、私をずっと見ていたのだった。 どうして?どうしよう。 そうぐるぐる考えている間にだんだん近づく足音。 そして私の前までくると、すごく辛そうな表情をさせながら 「俺のこと、もしかしてそんなに、嫌だった……?」 サイトウさんがポツリと言った言葉に、私は反射的に首を横に振った。 今度はけして、間違わないように。 思わず、涙がこぼれた。 「す、き、なん、です」 「だからっ……どうしても、だ、めで」 「ごめんな、さい」 「ち、がうんです」 「すき、です」 不思議な事に言葉に出してみたら、どこか心が楽になった気がした。 最後まで言い終わると、サイトウさんは私の手を握ってくれた。とても温かい手をしていた。 不思議に思ってそのまま見上げたら、にっこりと笑う顔がそこにあった。 「そのまま立ち去らなくて、やっぱりよかった」 データを受け取った時と何一つ変わらない、優しい口調でそう言ってくれた。 私はそれでますますホッとしてしまい、勤務中で困るのにと思いながらも涙が止められなかった。 その日の夜は初めてサイトウさんと食事をした。 もちろんお店は、ハケンの子が嫁いだ先の定食屋兼居酒屋。 カウンターに揃って座る私たちに、彼女がいたずらっぽい顔をしながら私にウィンクをし、大将が良い日本酒をサービスしてくれて、ほろ酔いになってしまいそうだった。 隣を見ると美味しそうにお酒を飲むサイトウさんと目が合って、ドキリとした。 正直目を見て話をするのはまだちょっと勇気がいるけれど、でも前よりかはもう全然辛くない。 そんな私を茶化すようにサイトウさんが言う。 「もう、大丈夫みたいだな。ちゃんと目、合うもんな」 嬉しそうに言われたのが、こっちまで嬉しくなって、 でもなんだか今までの自分の態度があんまりにも子供で恥ずかしくて、わざとツンと言ってみる。 「好きだから、恥ずかしくて見れなかったんです」 「正直言うと、俺は好きだから、ずっと見てたけどね」 その言葉と一緒に重ねられた手に、思わず固まってしまっただけでなく、気持ちまでもが身動きとれなくなってしまったなんて、言うまでもない話。 ( 恥ずかしすぎて見れないこの気持ち )
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