京阪 伏見稲荷

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京阪 伏見稲荷

 京都市の左京区、賀茂大橋を渡ったところにある出町柳駅から大阪市内のビジネス街、淀屋橋駅までを繋いでいる京阪電車。その鉄道の京都寄りに伏見稲荷という駅がある。名前の通り、全国の稲荷神社の総本山である伏見稲荷大社から徒歩五分のところにある駅で、初詣の時期には人が豊作時の米櫃(こめびつ)の米の如く、行き場を失って駅前で溢れかえっている光景を見ることが出来る。  その駅の改札から出てすぐの場所に小さなパン屋が看板を出している。名前は安直に「きつね」という。店の名前こそ手を抜いているが、そこの厨房で焼かれるパンの評判は上々である。朝は近くの小金持ちの奥様方が店に隣接している小さなカフェスペースでお茶がてら食パンを買いに来るし、昼は近所の高校の生徒や町工場の事務のお姉さんたちが、名物になっているベーコンサンドを求めて店の前に小振りの列を作った。  GWが終わって一週間ほど経った日の平日、「きつね」でバイトをしているフリーターの女の子は、いつも通りの昼間の忙しさを乗り越えて、店長と交代で遅めのランチを取る所だった。  「14時に相田さんの奥さんが取りにきはるチョコクロの詰め合わせ、カウンターの隅に置いてあるんで来たら渡してあげてください」  バスケットボールの様な腹をした店長に言いながら、裏の事務所に入った。事務所の椅子には、数分先に休憩に入っていたバイト仲間の女子大生が、1人掛けソファに深く座って昼ご飯のソーセージパンをかじっていた。 「おつかれ、今日いつにも増して忙しなかった」 「お疲れ様です、近くの高校の行事があるみたいですね今日」  左手に握った携帯電話から目線を上げながら陽子が答えた。半年前からこの店のバイトを始めた彼女は明朗快活な人柄から、すぐにこの店の人気者になった。大半の男性客は彼女の整った顔を一目見ようとこの店に足繁く通った。また、こういう女性は人生経験をそれなりに積んできたお姉様方(ここではマダムと呼ぶ)に嫌われるのが常だと思われるが、彼女は誰にでも分け隔てなく話しかけ人の心をフリースペース化する能力に長けているのでマダムたちからの評判は悪くない。チョコクロワッサンの詰め合わせを予約した相田さんの奥さんもそのマダムたちの中の1人である。 「今日電車混んでたのは理由があったんやね」 「そうです。おかげで今日も痴漢に遭いましたよ」  最近、京阪沿線に住んでいる女性達の悩みの種になっているのが急に増えだした電車内の痴漢である。初めのうちは発生範囲が淀屋橋~枚方市駅間の大阪府内だったが、最近は京都府内へ範囲が広がってきており頻度も二週間に一度から一週間に三回程度と格段に増している。また、気の弱い女性を見極める能力に長けているのか未だに現行犯で捕まえれた事例が一つもなく、被害に遭った人たちは皆泣き寝入りの状態だと聞く。痴漢が頻発する路線という噂が人々に知れ渡るまでそう時間は掛からず、京阪以外の路線を使う女性が急増しここ数か月の運輸業収益が急減した京阪は大阪府警と協力し痴漢撲滅に尽力しているが目立った成果は出ていない。  「犯人が捕まらない内はあまり京阪使わん方がええかもしれませんね。私は最近JRと近鉄乗り継いで来てますよ」  「そうしたいんやけどね、生憎京阪以外に電車が走ってなくて。もう家の近くでバイト先探そうかな。」  上辺だけのバイト仲間との会話をこなしながら、その選択肢だけはありえへんやろと心の中で自分自身に突っ込んでいた。大学を中退してから特に目的もなくフラフラしている娘に対して親からの干渉は年々強くなっていった。それに耐え兼ね、短期的長期的両方の目的意識が全くない状態でただ親の目から遠ざかることだけを考え突発的に始めた一人暮らしは困窮の極みだった。そこから抜け出すため、一時期心斎橋の割のいいバイトで働き、ある程度まとまった金を作り引っ越した先が今住んでいる1DKのマンションだった。駅から徒歩5分で便も良く特に不満もない自宅の近くで働かないのには理由があった。  「そういえば少し相談があるんですけど」  椅子の脇に置いてある鞄に携帯を仕舞いながら陽子がトーンを落として話し始めた。  「相談というのは友人の話なんですけど」  その友人というのは大学の同じサークルにいる同回生の女の子で最近ストーカー被害に悩まされているらしい。初めはしつこく連絡をしてくる程度だったが、授業や帰宅途中の付きまといに発展し最近とうとう留守中に勝手に一人暮らしの自宅へ侵入してきた形跡を見つけた。当然、すぐ警察に通報したがその形跡というのが本人にしか分からないような些細なものであったため真剣に取り合わず、何かあれば連絡をくれとだけ言い残し帰ってしまったという。  「話は分かったけど、何故そのことを私に相談してきたん」  「だってお姉さんもストーカーされてるんでしょ。何か具体的な対策とかあるのかなと思って」  私のことをお姉さんと呼ぶ年下の美人が悪びれる様子もなく答えた。何故この子は私がストーカーされていることを知っているのか、そのことは誰にも言っていないはずだった。本人に聞いてみても私から聞いたとしか言わなかった。そんなはずないと問い詰めてやろうかと思ったが、そう言い切れる理由を聞かれたときに困るので自分の中で逸る気持ちを抑えた。  「対策なんてないよ。そんなんあるなら私が教えてほしいぐらい」  「やっぱそうですよね。まあそこに関してはそれ程期待してなかったんですけど」  「どういうこと」 陽子はその友人を悩ませているストーカーを自分で捕まえたいと言い出した。そしてその手伝いをしてほしいとも。私は猛反対したが陽子は全く聞く耳を持たなかった。  「大丈夫ですよ。捕まえるといっても犯人が姿を見せたら警察に通報して捕まえてもらうってことですし、護身用のスタンガンも用意しますから」  そんなものを持っている理由を聞きたかったがどうせはぐらかされるのを分っていたので聞かなかった。正直、こんな面倒くさいことに首を突っ込みたくはなかったが陽子が私のストーカーの話をどこまで知っているのかわからない以上、陽子の頼みを無下にするのは大きなリスクがあると思われた。  陽子の友達の下宿は伏見稲荷駅の隣の駅、龍谷大深草駅の近くにあった。陽子のサークルはインカレサークルのため陽子と友達は別の大学だった。その友達の通う龍谷大学の深草キャンパスを横切って友達の下宿に向かった。  「今日の作戦を伝えますね」 ステージのある中庭でダブルダッチをしている学生を横目に陽子が話し出した。陽子の話からストーカーは同じ大学の学生だということは何となくわかっていたが、なんと同じサークルに所属しているという。そこまで身近なら学校にでも訴えればいいのではと提案したが、身近だからこそ対応が難しいという。 「それにその人が京都の老舗呉服屋の息子でこの辺では結構な顔だそうで。こちらの動き方次第では逆に潰されかねないんです」  なので、今回現行犯で捕まえることが大事なのだという。実際に住居侵入を犯した状態で捕まれば親のもみ消しも難しくなるだろうし、示談になれば相応のお金をせしめることが出来ると陽子は言った。今日、友達には別の知り合いの家に泊まってもらうことになっており陽子と私の二人で張り込みをすることになっている。前回家の中に入られた際に鍵を新しいものに変えているので前回の様にピッキングで中に入られることはない。新しい鍵を開けるために玄関の前で四苦八苦しているストーカーの気配を感じたら、私たちで警察に連絡して現行犯逮捕してもらうというのが今日の計画の流れだという。  「これなら私たちが直接ストーカーと対峙する必要もないですし安心でしょ?何かあればこれがありますし」  そう言いながら鞄の中に忍ばしているスタンガンを私に見せてきた。  友達のアパートに到着し、階段を上がって二階の部屋の前まで来た。確かにこの部屋のドアの鍵だけ明らかに新しく、高価な鍵穴になっていた。これなら大学生のにわかピッキングではそうそう開けられることはないだろう。鍵を開けて部屋の中に入り明かりを点けてカーペットが敷かれている床にローテーブルを挟んで腰かけた。  「ここに部屋の鍵置いておきますね」 ローテーブルに友達から借りてきたこの部屋の合鍵を置いて陽子が言った。  「人の部屋の鍵だし、ポケットに入れっぱなしで失くしたら怖いんで」  時計を見ると20時を回ったところだった。今までの傾向からみるとストーカーが来るにはあと二時間ほど時間があった。  「まだ時間もあるし、食糧調達にでも行ってきますね」  そういいながら陽子がそばに置いていた携帯を持って立ち上がった。一緒に行こうかと言ったが、ストーカーの男子学生はまだこの時間大学内にいるのでこの辺りを二人でうろつくよりは単独でさっさと買い物を済ませた方が都合がいいと言われ断られた。家の中にいる方が安全なので気を遣ってくれたのかもしれない。そう思いながら彼女の出ていくのを玄関まで見送って鍵を閉めた。彼女が外に出たとき何か金属のこすれる音が聞こえたが、特に気にも留めなかった。  暇つぶしに部屋のテレビでドラマを観ることにした。お金に困ったOLがパパ活を始めるが、ある一人のパパがストーカーに変容していく様を描いたヒューマンホラー物だった。偶々点けたテレビでやっていたドラマの題材がストーカー。ストーカーというものそのものにストーキングされている気がして吐き気がした。ドラマの内容も完全にシンクロしている訳ではないが、忌々しい過去を想起させるには充分過ぎる程似ていた。  そんな過去から目を背けるようにテレビを消して床に仰向けに寝転がったタイミングで玄関の鍵がガチャリと開いた。陽子が帰ってきたのだと思ったが、次の瞬間、血の気が引いた。陽子はテーブルに鍵を置いていった。帰ってきたならインターホンを鳴らすはず。そう思い急いで体を起こすと、目の前に黒マスクを付けた男が立っていた。突然の恐怖に喉を潰され、震えている内に床に押し付けられ次の瞬間身体に衝撃が走った。意識が消えていく中その男の声を聞いたが、その声には聞き覚えがあった。  GWが過ぎ本格的に暑くなってきた京都の日中、キャンパス内の大半の学生は夏を目前に控えた格好で限りあるキャンパスライフを謳歌していた。そのキャンパスにあるカフェテラスで二人の女子大生が談笑している。  「わざわざ深草まで来てもらってありがとう。遠かったでしょ」 小柄で可愛らしい黒髪の子が向かい合って座っている美人の学生に言った。  「全然、バイト先からすぐだし自分の大学行くより余程来やすいよ」  「そういってもらえて助かるわ。今日は私の彼氏に会ってもらうためにわざわざ来てもらってるから尚更申し訳なくて」  「その彼氏さんはいつ来るの。もう授業は終わってる時間でしょ」  「さっきメールでもうすぐ来るって言ってたからその内来ると思う」  「まあ、この前私の頼み聞いてもらったし、いくらでも待たせて頂きますけどね」  「一日だけバイトで朝早く行かないといけないから私の家貸してくれって言い出したことね。ちょうど彼氏と城崎へ旅行に行く日だったからノープロブレムやったけど、ちゃんとバイトは行けたん」  「ええ、しっかり貴方の家で泊まらせてもらって朝から伏見稲荷に向かいましたよ」  カフェテリアの二人の元に校舎から出てきた男子学生が近づいてきた。  「お待たせしました。授業後に教授と思いのほか喋り込んでしまって」  「紹介するわね。法学部3回生の橘さん。四条の呉服屋さんの一人息子よ」  美人の学生が立ち上がって挨拶をした。  「初めまして。中森陽子です」  ある日の夕方、伏見稲荷駅近くの小さなパン屋「きつね」の店長が店先で常連の奥さんと立ち話をしていた。  「店長さん最近お腹凹んできたわね」  「そうやねん、最近バイトの子が立て続けに二人辞めて人手不足やねん。一人はしっかり理由も聞いて手順踏んで辞めていったんやけど、もう一人は突然音信不通になってもうてな。学生が突然来なくなるのはようあんねんけど、フリーターの子が飛ぶのは珍しいてな。なんかあったんちゃうかおもて聞いてた親の連絡先にも電話したんやけど、番号自体が嘘の番号みたいでな。どないしようもないんや」  店長が先月比で凹んだ腹をさすりながら言った。    
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