阪急 塚口

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阪急 塚口

 兵庫県尼崎市に阪急神戸線の塚口駅がある。大阪と神戸を結ぶ神戸線の線路が二本、横にまっすぐ走っていて、そのうちの一本の右端から反比例グラフの様に上に向かって伸びる阪急伊丹線の線路の間に、その駅のホームがある。駅の構造上、ホームの広さが通常の駅よりかなり広くなっており、そのスペースを利用して穏やかな昼下がりを嗜む茶店や、テイクアウト専門のコーヒーカウンター、立ち食い蕎麦屋、関西人には馴染み深い中国発祥の飲茶の店までがホーム内に点在していた。  今年、大学三回生の春を迎えた私は通学定期券を手に入れるべく、そのホームに出来た長蛇の列に並んでいた。新年度の定期券購入は学生ではないのにもかかわらず、勉に励み、淡い恋を育み、己の将来へ羽ばたく翼を編んでるのですという顔を白々しく晒しながら、破格の学生料金と通常の定期料金の差額で、会社から支給される交通費をチョロまかそうとする輩が居るため、証明書を提示した上で窓口で購入しなければいけない決まりになっている。なので正に今、私は本来ならば家で芸術鑑賞に勤しみ自らの教養に磨きをかけている時間に、立ち食い蕎麦屋の入り口前まで伸びた列に並び、呆けた顔で突っ立っている。 私の前に並んでいるスーツを着た小太りの中年男はスマホを弄るのに夢中になっている。そのスマホは中国のメーカーのもので、つい最近、雨の日に使うと感電することがわかった製品でリコールになったものだ。見すぼらしいほどクタクタのスーツを着た中年男との距離を少し取りつつ、男の手元を見ると男の指が一刀両断されたミミズの様に激しく動いていた。何気なく画面を覗くと、SNSに投稿するところだった。 「今日ダーウメのタワレコで新譜視聴してきたなう。まじ激アツ。即買いしたナリ」  ツッコミどころ満載だったが、まずはCDを買う前にスーツの一着でも仕立てろと思っていると、私のスマホが鳴った。  画面を見ると彼女からLINEが来ていた。  「明日の映画やけど、バイト入ってくれって頼まれたから行けなくなった。ごめん」  既読だけつけて返信せずにスマホをポケットに入れた。バイトの話は嘘だ。おそらく昨日の電話のことを根に持っているんだろう。遊園地のバイトで何かにつけてセクハラまがいなことをしてくる着ぐるみ男がいると言っていたので、所詮バイトなんやしやめたらええやんと言った。あまりバイトをやめることには乗り気ではないようで、私からその男に一言言ってくれと頼んできたので、そんな面倒臭いことに首を突っ込みたくないと返したら、そこから怒りだし喧嘩になった。年下の女はくだらないことで機嫌を損ねるので疲れる。  尻の青い女に気分を害され、モヤモヤを払うように周りを見回した。ふと目を向けると、改札からホームに上がる数段の階段を昇ったところに、荷物で両手が塞がった男が立っていた。よく見ると、左手にコーヒーカウンターで売っているカフェオレを、右手にホームで売っている豚まんの袋を提げている。塚口駅は有名な観光地の最寄駅ではないので、基本的に地元の人間が日常の中で使うことしかない。男の身なりを見る限りかなりの軽装で、どう見ても地元民にしか見えない。地元民が何を塚口駅を満喫することがあるんだ。おっさんがはしゃぎおって。さぞ満足げな顔をしているのだろうと顔を見ると、引きつっている。可笑しな話だ。肉まんとカフェオレで腹も心も満たされているはずの彼の顔が引きつる理由はなんだ。そう思いながら彼を凝視していると、引きつった顔が何か決心したように力が込もり、定期券の列を整理している駅員に近づいていった。駅員が彼に気づき、どうかしましたかと尋ねると彼は少しの間を置いて答えた。  「すんまへん、切符無くしてホームから出られませんねん」  地元民であるという推理は当たったようだった。  駅員に彼が連れられて行ったのを見届けたところで私の順番が来た。何一つ問題なく定期券を購入し、一旦改札の外へ出た。塚口駅の北側は駅から車がギリギリ行き交えるぐらいの幅の道が真っ直ぐ伸びていて、両脇にはパン屋にドラックストア、居酒屋にカラオケ屋と地元にあれば便利だと感じる店が連なっている。空を見ると道の伸びた先に橙色のお日さんが半分だけ顔を出していた。お日さんが溶け出しているのか、周りの空は同じく橙色に染まっていた。 明日は大学は休みだ。別に彼女にドタキャンされても私には暇つぶしに遊べる女が沢山いる。さて誰から声をかけようか。芦屋に住んでいる社会学部の子にしよう。父親が実業家で金を持っているから、明日は財布は要らないな。その子の名前をLINEの友達リストから探しながら私は駅前のバス停に向かった。彼がバス停に駆け出すと、チャリっと金属音がした。  
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