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ものぐさ女、麺類自動販売機を買う
「ねえ、これ、何?」
いつものように連絡もなく訪ねておきながら、思わず「君は私の母親か?」と言いたくなるような態度で問われる。扉を開けるなり、本来あるべき場所を見失って流れ着いた漂流物の堆積を敷き詰めた、狭っ苦しいよく見知った部屋に、見知らぬ低音を響かせる正体不明の筐体たちを目にしたであろう彼女からすれば、至極真っ当な問いだった。
「麺類の自販機だけど……」
「いや、麺類の自販機だけど、じゃないんだよ。正直それはどうでもいいんだよ。なんでこの鮨詰めの部屋にこんなものがあんのかって聞いてんの。」
「だって飯買いに行くの怠いからさ、これがあったら外出なくてすむじゃん?」
正直に答える。そもそもこれ以外の理由なんて最初から有りはしないし、決して「有ったらちょっと面白い」とかそういう理由は微塵も無い。絶対に。
「お前のことだから、有ったらちょっと面白いじゃんね?とか思ってるんだろ、どうせ。」
それなりに付き合いの長い彼女は、いつの間にか私の乱雑かつ無秩序な思考を読む能力を会得していたようで、適当極まりない独白の言い訳すらもあっさりとお見通しといった具合だった。
「いや、でもさ、ちょっとイイじゃんこれ。」
「あー、うん、良さは分からんでもない。」
肯定の言葉が飛び込んできて思わず身を乗り出すも、すかさず続けられる文句に、その期待はあっけなく水泡に帰す。
「けど、あくまでこいつは寂びれたサービスエリアとか、なんで営業できてんのか分からん食堂とかにあるからこそ、そのレトロ感と哀愁とその空間に漂う空気だとか、そこに良さを感じるのであって、一個人の部屋にあったところで、こいつのポテンシャルは発揮できないんだよ。」
「つまりね、ジャマ。」
「狭い。ただでさえ狭いのに。」
「あと微妙に暑い。」
想定よりも連ねられる不平不満の数々に、言い知れぬ敗北感が脳内と胸中を蹂躙する。
「ええっと、あの、なんかすんませんでした。」
つい謝ってしまった。が、ドアを開いた状態から微動だにしない彼女はまだ何か思うところがあるようで、さらに口を開く。
「そもそもさあ、これの仕組み分かってんの?」
「え?お金入れたら出てくんでしょ?出来立て熱々の麺がさ。」
「んじゃ、それ、その出来立て熱々の麺はどっから来んの。」
「中からに決まってんじゃん。バカなのお前。」
「バカはどっちだ。中開けたのかお前?」
「開けてないけど?……え?ちょっと待って?え?もしかして入ってないの!?」
「開ければ分かるよ、バカ。」
さらなる、そして今度は圧倒的な敗北感に膝をつくしかなかった。慌てて開けた鉄の扉の内側には、よく分からない機構と空虚だけがあった。その空虚はすぐさま私の中に伝染し、ただただ自身の浅慮に打ち拉がれるしかなくなってしまった。
「バカは私だった……」
木の枝から零れ落ちた毛虫の形態模写で床を這いずり、彼女の足首を掴む。
「それ見たことか。」
見上げた先の勝ち誇った顔は、実際の距離おおよそ170センチメートルよりも酷く遠く感じられた。あとその顔はとてもムカつく。
「慰めてください……」
我ながらあまりにも情けない声で懇願してしまった。その情けなさたるや、母親が目にすれば泣きながら充血した目は血走った目に変わり鬼の形相で怒鳴られる程のものである。私の母はおそらく腹を抱えて笑うだろうけれど。
「とりあえず手、離して。なんかお前の手、ベタベタしてる。」
「あ、ゴメン。多分手汗。」
言いつつパッと手を離す。これほど”パッと“という擬態語が似合う動作もないだろうと自惚れてしまうほどに。自惚れついでに両手を顔の側にやってみた。が、こんな私にも恥じらいくらいはあるのですぐに手のひらを私に相応しい散らかった床に戻す。
「で?どうせ今日もまだ何も食べてないんでしょ?ほれ。本日の配給である。ありがたく受け取れ。」
きっとこの娘の前世は女王様なのだろうなと思わせる態度と口ぶり。だが私は平身低頭する他ない。なぜなら食糧はこの上なく有り難いものだからである。
「ありがとうママ。」
「誰がママだ。このアホ。」
真顔で冗談をキャッチボールしつつ、ビニール袋に手を突っ込み、ガサガサ音を立てながら後光の指すお恵みの品を目の前に持ってくる。
「わあい!ラーメンだ!あたいラーメン大好き!」
「ケトル、キッチンにあったよね?お湯沸かしてやるから、さっさと食べな。」
女王様は案外世話好きだった。知ってたけど。彼女はなんだかんだ言ってこういうタチなので、私もついつい幼児退行に走ってしまうのだ。
正座で待ち構える3分間。なんのことはない。あっという間だった。お互いになぜだか無言だったけど。蓋をめくるとびっしりと蒸気の汗をかいていて、油が泳ぐスープの上に滴り落ちる。同時に食欲を掻き立てる添加物由来の香りが鼻腔を擽る。この瞬間はいつでもたまらない快感に満ち溢れている。不意にある思いつきが電流のようにシナプスを刺激する。ニューロンから直通急行で声帯へと運ばれたそれは、半ば無意識のうちに言葉となって漏れ出る。
「これ自販機の中から取り出せばそれっぽくなるじゃん。」
耳介のアンテナが拾った音声で、素晴らしい提案を理解する。
「うわっ、私天才じゃん。最高かよ。」
「いや、バカでしょ。」
先程まで私の独り言を黙って聞いていたであろう彼女が口を開く。久しぶりでさぞかしその唇の門は重かったであろうに。ただ呆れていただけかもしれないが。
「思い立ったが吉日!先手必勝!有言実行!」
かつてないアイデアを理解してから40歩遅れてやってきた喜びに、脚はバネの如く飛び跳ね天井を破る勢い。天上の王道楽土へ至る高揚感が全身を支配する。意気揚々と鉄の箱の下方右寄りに口を開けた取り出し口に出来立て熱々のカップラーメンを恭しくそろりと乗せる。そして祈るように静かに目を閉じる。束の間の静寂に童心の期待感を増幅させる。カッと目を見開くとそこにはなんと出来立て熱々のラーメンがあった!
「…………思ったより良くないなこれ。」
「そりゃカップ麺だからな。それに本質からは程遠い。」
膨れ上がった橙色の感情は、見るも無残な灰褐色の燃え殻になってしまった。
「とりあえず食べよ。ラーメンに罪はないし、カップ麺だろうとそこに貴賤も何もない。ただそこに美味いラーメンとそれを食べる私がいるだけだ。」
もごもご咀嚼しつつ適当な講釈を並べる私を見ながら、肩肘をつきながら眉を潜める彼女。恐らく行儀が悪いと言いたいのだろう。知ったことか。私にとって食と喋りは最高の娯楽なのだ。そのふたつのマリアージュに水を差させるものか。と口に出しそうになったが、黙って食事に集中することにした。
すっかり跡形もなくなり骸と化したさっきまでラーメンだったものを、ゴミ箱があるはずの方角へ放り投げ、固いベッドに身を預ける。
「お腹いっぱいになったら眠くなった。」
「添い寝してください。」
本日二度目の情けない懇願が、回らない頭から独りでに外出していた。
「いつもそれだなお前。まあ良いけど。」
女王様はママでもあったようだ。あるいはベビーシッター。これも知ってたけど。
「添い寝してくれるからベッドだけは綺麗にしておいたよ。」
「私が来ること最初から分かってんなら他も綺麗にしといて。全く……」
なんだかんだこれが私たちふたりのお決まりのやり取りなのである。
「んじゃ、おやすみ……」
「はい、おやすみ。バーカ。」
微睡みの海を揺蕩うように脱力し鉛の瞼を万有引力に任せて閉じる。が、夢見心地の中に見知らぬ違和感があった。了承なく領海に侵入した船舶のモーター音。
「結構うるさいな。麺の自販機。」
「今頃気付いたのかこのバカ。」
実に本日3度目の敗北だった。
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